『サルタンバンク』ジャン=クロード・ビエット
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ジャン=クロード・ビエットと『サルタンバンク』についていくつかのことを書こう。
「カイエ」の批評家だったビエットは、文章家でもあったし、何本かの素晴らしいフィルムを撮った映画作家でもあった。それに彼は、ロメールの『シュザンヌの遍歴』からよくちょい役でフィルムにも出演した俳優でもあった。昨年の夏から続いた「カイエ」の危機は、ビエットとジャニーヌ・バザンという「カイエ」の精神的支柱になった人々の相次ぐ死によって始まり、そして「ルモンド」紙による「カイエ」への全面的な介入とジャン=ミシェル・フロドンのディレクター就任によって決定的になった。
ビエットが今の「カイエ」の状況についてどう思うかは彼がいなくなった今となっては分からない。だが「カイエ」にあって、ビエットにもっとも近い存在で、彼が結局完成することのなかった作品のためにともにロンドンまで旅したマリ=アンヌ・ゲラン──セルジュ・ダネーから「カイエ」に書くことを勧められ、イデックでのデプレシャンの同級生──は、もう「カイエ」にいない。彼女が最後に「カイエ」に書いたのはビエットの追悼文(泣かせる)だった。
そしてデプレシャンの『そして僕は恋をする』の3人の主要な女優のひとりであるジャンヌ・バリバールが『サルタンバンク』の主演をしている。『サルタンバンク』とは、このフィルムを見た誰でもが気づくように単なる駄洒落である。サルタン銀行=サルタン・バンク、サルタンバンク=サルティンバンコ。サルティンバンコとは、コメディア・デラルテを継承するイタリアのサーカス一家だ。芸能=芸術=金銭という「サルタンバンク」につきまとうコノテーションのすべてがこのフィルムの物語の全体だ。
サルティン・バンクの嫡男が支配人を務める劇場が経営危機におそわれている。サルティン・バンクを経営する弟は、もう資金援助はできないと言う。でも劇場では、ラシーヌの『エステル』とチェーホフの『ワーニャ伯父さん』の稽古が進んでいる──かつてビエットは俳優として『ワーニャ伯父さん』を演じたことがある──が、ここでも問題が起こる。エステルを演じる女優が降りてしまった。
劇場支配人の姪ヴァネッサは才能ある女優だったが、今は女優をやめて、劇場用の小道具を作るアトリエで芝居用の靴を作っている──ヴァネッサを演じるのがジャンヌ・バリバールであり、ちょうどポール・クローデルの『繻子の靴』の上演を終えてからのことだった。「靴」を作るのは至極当然のことだ。
ヴァネッサの女優としての才能を誰もが覚えている。「エステル」を彼女が演じることを決心するのがフィルムのラストだろうと想像してしまう。事実、彼女は、ベルリンの劇場で上演されている『メアリー・スチュアート』の上演のために注文された「靴」をベルリンまで届けに行き、そこで会ったハンス・ツィシュラー──「おいしい」役だった──に誘われて、忘れかけていた劇場の誘惑と魔術を思い出し始める。
だが劇場の経営危機は軽傷ではない。満員の客を集めるには、ラシーヌの悲劇でもチェーホフの過ぎ去っていく一瞬を慈しむ「近代古典」でもない。それよりも無償の笑いだ。支配人は、稽古を中断し、コメディア・デラルテ風の道化のデュオを雇う。『エステル』を演じてみようを決心したヴァネッサは鏡の前で『エステル』の台詞をつぶやいてみる。
現実はまるでラシーヌやチェーホフが描く世界と同じだ。否、そうではない。コメディア・デラルテこそ現実の似姿なのだ。どちらも正しい。サルタン家のゴッドマザーを演じるミシュリーヌ・プレルは、そのふたつは対立なんかしないと言っていた。
僕らは、このフィルムを見て、イオッセリアーニやルノワールを思い出す。「どこで芝居が終わり、どこで現実が始まるの?」という有名すぎるフレーズを思い出す。ジャン・ルノワールの遺作が『ルノワール小劇場』だったことを思い出す。ビエットもそのどちらかを選んだ人ではない。とりあえず時は流れていく。その中で人々は出会ったり、再会したりする。日にちや日付や時刻についての台詞がとてもたくさん聞こえた。