「旅をする裸の眼」多和田葉子(「群像」2月号)
[ book , cinema ]
近年の多和田葉子の小説は「ざわめき」のなかにある。そこでは能動的な聴取は行われず、いくつもの音がそれぞれ等価なものとして差異なく耳にまとわりつく。たとえばあなたが駅のターミナルに立っているような気分がするとしたら、それはただ汽車での移動が頻繁に行われるためだけではないのだ。「翌朝になると四枚の壁すべてから物音が聞こえた」。その(この)耳はそこにあるすべての音に晒されている。
サイゴンで暮らしていた「わたし」は、ある用事でベルリンに行き、さらには「事故」によってボーフムからパリへ行き着き、映画館で「あなた」と出会う。Repulsion、Tristana、Indochine……そんな章題を兼ねた映画の題名から、読者である私たちは「あなた」の名前を容易に思い浮かべることができる。しかし「わたし」の見る「あなた」は、私たちがいくつもの映画のなかで見てきた大女優ではない。ゆえに「わたし」が見る映画もまた私たちが見た映画と同じではない。
「わたし」は「あなた」の出る映画のことを、映画のなかの「あなた」のことを描写し続ける。そのとき、当然のようにざわめきは消える。それは、「わたし」が「あなた」を見るのが常に映画館であることや、「わたし」がフランス語を聞き取れないためだけではない。そこでは音の存在が消されてしまっている。まるで「わたし」が眼だけになってしまったかのように。
映画の描写は次第に増え続け(同時にそれは映画の描写でもなくなり)、そのことばは静寂のなかを踊り出す。しかし最終章はDancer In the darkという章題によって、「セルマはアメリカに亡命してそこで死刑の宣告を受ける前に、ベルリンで3年間暮らしたことがあった」という一文で始まる。盲目の女性がセルマにこう言う。「視力っていうのは裂け目みたいなものですよ。その裂け目を通して向こうが見えるんじゃなくて、視力自身が裂け目なんです。だからまさにそこが見えないんです。わたしはもう他人の人生話に興味がないんです。音楽、いいえ、雑音が好きなんです」。
「わたし」は眼だけになってしまったのでも、音を聴いていないのでもなかった。「わたし」は視力となり、すべての音のなかにいたのだった。つまり「わたし」こそが「映画」なのだ。だからこそ、私はこの「わたし」の物語(旅)から逃れがたく思うのだろう。