『のんきな姉さん』七里 圭
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テアトル新宿で現在レイトショー中の『のんきな姉さん』。不勉強で監督・脚本の七里圭氏について前知識がなかったのだが、撮影がたむらまさきさんと聞いて見に行く。七里圭監督は1967年生まれで『のんきな姉さん』が長編劇場映画監督デビュー作。篠崎誠監督『犬と歩けば』(03,4月公開予定)では脚本を担当しているのだそうだ。
オフィスで残業中の安寿子のもとに、弟の寿司夫が書いた1冊の本『のんきな姉さん』が届く。電話が鳴り、「今から死ぬことにするよ」と寿司夫は言う。安寿子は「勝手にすれば」と言い放つ。そして姉弟の生活が語られていき、どうやらふたりの間には近親相姦的な関係があり、姉は弟の子供を妊娠したらしいことがほのめかされる。だが、ふたりの性行為は一切描かれないし、彼らの生活にはオフィスで交わされる会話の内容と辻褄の合わないものが混じっていて、ふたりの間に何があったのかが分からなくなっていく。
当の寿司夫もそのようで、婚約者の子供だと言う姉に本当は誰の子なのか問おうとする。婚約者も、寿司夫の養父(薮小路)と名乗る男も、姉弟の間に何があったのか知りたがる。けれども安寿子はそういう問いや、何かを問い掛けようとする者に対し、常に「今日はやめて」「あなたには関係ない」「そんなこと知らない」と拒絶の言葉を発し、相手のもとから去ろうとする。男たちはそんな彼女に何も言えず、すごすごと去っていく。薮小路にいたっては安寿子の存在そのものを消そうと銃まで持ち出す始末。そうやって男たちも他者との関係から遠ざかっていく。『のんきな姉さん』で綴られるのはどうやら「クリスマス」の頃のことらしいのだが、唯一いつのことかを示すその言葉も寿司夫によって「両親の命日」と言い直され、姉弟ふたりの特別な日へと変貌する。その日さえも拒絶しようとする安寿子を見るにつけ、姉弟の間にあった出来事が曖昧なまま明かにされないことが、映画をふたりの閉じられた世界へと引きずり込んでいくかのように思えてしまう。
ところで、それをくい止めようとするかのように存在している人物がひとりいる。三浦友和演じる「課長」である。彼は安寿子に拒絶されようが語ることをやめない。小説を手に取って「君たちは狂っている。けれども美しい」と言い切り、「弟からの電話などない」という安寿子の嘘をあっけなく暴く。本当のことを知りたがる3人の男たちに対し、課長はそんなことは気にも止めず、机にパソコンや資料を広げて残業中の安寿子のそばでただ落花生を食べ続けている。一向に帰る気配など見せず、その場から追いやられても再び戻ってくることを繰り返して、むしろ頑としてそこに居続けようとする。婚約者が安寿子とふたりきりで話したそうにしているときもなかなか席を立とうとせず、居て当然のように女子トイレの個室の扉を開けて安寿子の前に現れる彼の姿をコミカルだと思うのは簡単だが、彼はそこに居なくてはならないのだ。私たちは彼の存在によって、本当は何があったのかを問うことは無意味だと気が付く。
安寿子と課長の会話は婚約者の突然の訪問や電話のベルによってたびたび中断されてしまう。しかし、それが断続的に行われることで、「拒絶の女」であった安寿子に変化が訪れる。課長が「弟を迎えに行かない方がいいのかもしれないな」とふと漏らすとき、安寿子は「でも弟を分かってあげられるのは私しかいないんですよね」と尋ね、「同じことは2度と起こらない」と課長は言う。そして電話のベルが鳴り、課長はまるでもう役目を果たしたとでもいうように、語り、居続けることをやめてその場を去っていくのである。
そして姉は弟を迎えに行き、ふたりは別れる。それはお互いへの拒絶ではなく、どこかでふたりとも生きていくということだ。寿司夫は「長い夢を見ていたようだ」と言うけれど、何が夢で何が夢でなかったかを問う必要はない。私たちは、拒絶するのをやめて前に進もうとするふたりの姿をただ見つめていよう。――監督はこの映画を「オフィス部分と姉弟の部分」が「一つは虚の世界を突き進み、一つはリアルなもの」として「全く違う映画」にし、ふたつが「何故か編集で繋がっている」というふうにするつもりだったと言う。それを聞いたたむらまさきはこう言ったそうだ。「僕は第三の道を行きます」と。