サッカー アジア地区1次予選 日本対オマーン
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ジーコ・ジャパンの長いドイツへの道の開始。盛り上がらないのはいつも通り。埼玉スタジアムにも空席が見られる。周知の通り、小笠原の「なんとなく」上げたクロスがディフェンダーに当たり、それが俊輔に当たり、ペナルティ・エリア内で偶然ポツンとひとりでいた久保がシュートをダフり、それが幸いしてゴール・マウスにボールが転がっていった。92分の出来事。1-0。勝ち点3。予選は戦い方がどうあれ、勝てばいいのだ、と思う人はもういないだろう。プレミア、セリエA、リーガ・エスパニョーラの3大リーグを初め、チャンピオンズ・リーグなどCS、BSを合わせれば何でも見られる。コアなファンなら、現代フットボールの最先端を目が記憶しているはずだ。そうしたファンはフットボールが好きなのであって、「日本」が好きなのではない。何度も書いたが、グローバルな時代にあってナショナル・チームとは、失われかけたナショナリズムの「捌け口」でもあるけれども、同じパスポートを持つ優秀な選手たちが一堂に会し、その選手たちを監督がどんなチームに導いていくのかという実験の場であり、その意味で、短期熟成型のクラブ・チームという趣を持っている。だから、分厚い底辺を抱え、宝の山を前にしたセレクショナーとしてのブラジルやアルゼンチンの監督と、ちょうど「世界」へ船出したばかりのチーム・ジャパンの監督とは異なる。自分のメガネにかなった選手たちを集めれば仕事が終わりなのではなく、仕事は、そこから始まる。このことの詳細については次号のnobody本誌に書いたのでそちらを参照して欲しい。
とりあえずゲームに集中。つねにふたりのディフェンダーを背負ってパスの出しどころを探すうちに何度もボールを奪われる中田。ボールが回ってくるとかならず切り返しのフェイントを入れ、そのことでパスが遅延され、すでに相手ディフェンダーが揃ってしまうのを気にもとめない様子の俊輔。高原がせっかく楔のボールを処理しても、彼にそれが戻ってくることはない。柳沢を見ているとこのプレーでサンプドリアのレギュラーはあり得ないだろうと納得するだけ。稲本のプレーには好調時のキレがなく、遠藤のパスも精度がない。もっとも大きな問題は両サイドで、ボランチにパスが収まってからやっとサイド・ライン際を走り始める。「流れるようなアタック」は夢のまた夢。「オマーンのディフェンスがよい」(木村和司)のではなく、ジャパンのアタックが単に遅い。点がはいるのはセット・プレーからしかないだろう、そう思われた瞬間、高原がPKを「もらう」。俊輔とキーパーのリズムがばっちり合い、ボールがキーパーのパンチングの餌食。
0-0のまま後半。もっとひどい。中盤が間延びして、20人のフィールドプレーヤーでTVのモニターに映るのは半分ほど。サイド攻撃とサイド・チェンジがこうした時間帯、もっとも有効なことくらい誰にも分かる。中田は、空しくパスの出しどころを探すうちに潰され、稲本も遠藤もゲームに参加しているとは思えない。小笠原が遠藤に代わって投入されると事態は、もっとひどくなる。バランスをとるために中田が遠藤の位置まで下がってしまう。柳沢に代わって久保は当然だろうが、高原に代わって鈴木ではゲームの停滞が増幅するだけだ。おそらく引き分けだろうと思われた瞬間、冒頭に書いた「事件」が起こり、ジャパンは勝利を収めた。あんなに非難したトゥルシエが懐かしくなった人も多いだろう。ジーコ・ジャパンに比べて、どんなフットボールがしたいのかまだ明瞭だった。監督しては山本昌邦の方が優れていると誰でも考えたろう。オリンピック代表は稚拙だけれども、ゲーム・プランがはっきりしている。オマーンとジャパンは、トゥルシエ・ジャパンがサン=ドゥニでフランスに敗れたときのフランスとジャパンくらいの差があるはずだ。アルティメイト・クラッシュで勝たなければ、もう誰も納得しない。