『この世の外へ クラブ進駐軍』阪本順治
[ architecture , cinema ]
不在によって集団が作られていく。街のそこら中に人があふれているにもかかわらず、不在は常につきまとう。バンド「ラッキー・ストライカーズ」の結成も、ドラマーの不在によって突然放り込まれた、オダギリジョーの騒々しさによって始まる。誰かがいなくなるたびに、彼らは集められ演奏が始まる。彼らのためにステージは用意されている。酒場というステージで、いくつもの儀式が行われる。そこでは、集まる人々の数が減っていく、あるいは新たな加入者が登場する。いなくなっていく者への見送りの儀式。バンドのメンバーの死を伝えに来たラッセルは、新たな加入者として輪の中に加わると共に、新たな不在者として彼らに囲まれる側となる。
「死ぬなよ」と声をかける萩原聖人の言葉に、
「そうじゃない、殺しにいくんだ。」
ラッセルはそう答える。
ラッセルは自分が日本人を殺す夢につきまとわれる。自分がいなくなること、弟がいなくなることに対する恐怖や悲しみと同時に、自分が新たな不在を作り出すことに対する恐怖を抱えたまま、彼は戦場へと去っていく。死が等価に扱われる。交通事故による息子の死、日本人に殺された弟の死、薬物中毒による死。音楽によって追悼するという行為は、すべての死を曖昧なまま統一化してしまう。ラッセルは、殺すことと殺されることの差異を唯一確信している者である。ラッセルの死の直接の原因が最後まで明かされないまま、『ダニ-・ボーイ』が演奏される中、兵士たちは戦場へと送りだされる。
地下道から外へ出ていこうと誘いにやって来る光石研らを拒絶し、男は、「あっちの世界は危険だ」とつぶやく。ラッセルが渇望した“この世の外”は、男にとって確実に存在する場所であり、すぐ目の前に与えられ階段を昇ることで簡単に出ていくことのできる場所である。それでも彼は、内側に留まることに頑に執着する。手にすることのできない“この世の外”を求める者と、“この世の外”を自ら拒絶する者。内側から外へ、自分の力だけで這い出すのだと豪語した少年は、あっさりと兄の手に引かれ外へと飛び出していく。大人たちが彷徨いつづけるふたつの場所を、少年はあっさりと同一化してしまう。自分の地位さえ簡単に他人の手に譲り渡して。鳴り止まない音楽は、少年のように何もかも引き受けてしまうのだろうか?そこには何の無邪気さも感じられない。