オルタナティブ・モダン 建築の自由をひらくもの 第1回 伊東豊雄 「生成のプロセスとしての建築」
[ architecture , sports ]
4回にわたって行われる連続レクチャーの第1回目は伊東豊雄を迎えて。
始めにふたりのモデレーターによって、テクトニックな面からとアクティヴィティの面、ふたつの側面からのアプローチが提示される。特にテクトニックな面においては、セシル・バルモンドとのコラボレーションによるサーペンタイン・ギャラリーのパビリオンなどを思い浮かべると、「オルタナティブ」「自由をひらく」といった言葉の具体的な実現例として、この連続レクチャーの第1回に伊東豊雄が選ばれることの必然性を感じる。アルゴリズムによって、自己生成するかたち。投影される映像のめまぐるしい変化に魔法のように魅了される。
しかし、レクチャーの冒頭で伊東は謎めいた言葉をつぶやく。「特に仙台メディアテーク以降、ひとつの完成した作品の意味が圧倒的に薄くなってきている」。
ほぼ同時期の作品であるホテルPと諏訪湖博物館のミニマリズムとダイナミズムの間を揺れることで90年代作品を作ってきたという伊東。このレクチャーでも強調される仙台メディアテーク以前/以後という斜線を経た彼の作品に起こったある種の変化を言い表すには、「非線形」「多様な変化」「自己生成」といった言葉はあまりにすんなりとまとまりすぎてように感じた(あるいは理想の身体としての能の身体)。冒頭の不穏なつぶやきに呼応する根底的な矛盾が孕んでいるはずだ。
そんな思いが意外なところで氷解する。表参道のトッズビルで用いられ、今後の作品にも使用される予定であるという「木」のイコンに、私は多分に否定的だった。しかし彼は「森」をつくりたいのだと言う。ひとつひとつの木には美醜が存在するかもしれないが、森という総体になると美学的な側面は限りなく小さくなる。複雑になることによって、ちょっと曲がってようが、どういうかたちだろうが問題ではならなくなる地点が存在する。そこではもはや「何が最適か」ということはまったく議論の外に置かれてしまう、と。彼の目指す複雑さは、シンプルであることと矛盾しない。ただ、それが何かを取り払って生まれるものではないということだ。「木」のモデルを使って落選した武蔵境の公共施設のコンペについて、木を使ったから同じことをやっているというのではなくて、「むしろ要素を取り払っていけば同じことを何度やっても誰も何も言わないことが、一番boringなんじゃないか」と言う伊東。「Blurする建築」と仙台メディアテークについて語っていた彼は、それ以後、確実に何かをあらわにしてしまうような建築をつくっている。
建築の自由よりも、伊東の飛びぬけた自由の毒気に当てられたという感じで、とてもおもしろかった。