『ビッグ・フィッシュ』ティム・バートン
[ book , cinema ]
その過去が嘘と伝説にまみれた父とそれを信じることができない息子との和解。そんな物語を持つこのティム・バートンの新作は、しかしながら実生活において父を亡くし、息子を授かったバートンの成熟という言葉だけで片付けられるような単なるファンタジー風味の家族再生の物語ではない。
ビリー・クラダップ演じるウィリアム・ブルームは、目の前で病に伏せている父エドワード・ブルーム(アルバート・フィニー)を許せないのではない。彼の為なら不味い薬を代わりに飲んであげたりもする。彼が認めることができないのは、父が語りだす瞬間に立ち現れる若きエドワード(ユアン・マクレガー)の方だ。ウィリアムは、皆が賞賛し愛する虚構の存在、エドワード=マクレガーに嫉妬めいた反応すら見せる。かつて深く愛し賞賛したから、余りに同じ話を繰り返し聞き過ぎたから、父によく似たその若い男は嘘でなければならないのだ。ユアン・マクレガーと若かりしアルバート・フィニーがいかに瓜二つだとしても、類似の程度を遠く越えたところで、彼らが別人であるという「本当のこと」をウィリアムは求めてやまない。
もし仮に、エドワード=マクレガーの物語が終始エドワード=フィニーのみによって語られるのであれば、彼の物語が実は「本当のこと」だったとしても、ウィリアムが求めていた「本当のこと」がそっくりそのままエドワード=マクレガー=フィニーとなれば、きれいに「和解」は成立しただろう。だが、物語の登場人物でもある、かつての少女にして魔女(ヘレナ=ボナム・カーター)が、エドワード=マクレガーの成し遂げた町の再建と凋落を語るとき、また、ウィリアム自身が語り手となり同時に登場人物としても現れるとき、嘘と本当のこととの等価交換によって成り立つすんなりととした和解は変型してしまう。
その変型とは、例えばかつてユートピアのような場所だった町の荒廃のふたつのあり方である。エドワード=マクレガーの活躍によって再建された町は、ウィリアムが訪ねる頃には再び荒廃している。ウィリアムの訪れた町の有り様とエドワード=マクレガーが訪れた町の有り様の間に横たわるのは、時間の経過よりも建物の汚れや痛みよりも何よりも、町の端に建つ家の傾きなのである。また例えば、エドワードの葬式に現れる巨人・カールの身長の違いである。彼は物語の中でのように5~6m程の身長はないが、2mはゆうに越える身長を持つだろう。ウィリアムがそこで見つけるのは、本当のことと嘘はとても似ているふたつの別のものではなくて、同じものだが縮尺や傾斜が異なるということである。
ウィリアムはエドワード=マクレガーの物語に対して折り合いをつけたりもせず、拒絶したりもせず、それと同じものだが縮尺の異なるエドワード=フィニーの物語を新たに語り始める。相似形の新しい物語のなかでは、魚はどこまでも大きくなる。