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March 13, 2004

『血』ペドロ・コスタ

[ cinema , cinema ]

レオス・カラックスと同年代のペドロ・コスタは1989年に『血』を作る。処女長篇作だ。『汚れた血』や『ボーイ・ミーツ・ガール』が日本に紹介され、いったいどれほどの熱狂とともに迎えられたか、そんなことを想像しながら昨今のペドロ・コスタを巡る日本の状況を考えてみるのもひとつの手かもしれないが、しかしいまやそんな暇も猶予もどうやら無さそうな気がする。
だがやはり『アルファヴィル』のような近未来的風景とノワール的な物語が突如リスボンに現れるとき、もちろんわれわれは『汚れた血』を思い出す。おそらくレオス・カラックスと似通った教養を持ち、同じように血(血統)を巡るフィルムを初期に撮りあげたペドロ・コスタは、ではどのようにして『ヴァンダの部屋』へと至ったのだろうか。言い換えれば『ポーラX』と『ヴァンダの部屋』とは、何が異なり何が同じなのかということだ。そしてそれはおそらく「たがの外れた世界」へ対する態度に関わる事柄だ。
ひとつだけ言えることは『ヴァンダの部屋』は、そして『血』からしてすでにペドロ・コスタは「たがの外れた世界」をフィルムのなかで見せようとしない。あらゆる因果関係が絶たれた「たがの外れた世界」など、この世界にはあり得ない事態であり、1本のフィルムを撮るということにおいてはあり得ない事態だからだ。「世界のたがが外れてしまった。何の因果かそれを直す役目を負ってしまうとは」。ハムレットの言葉は、やはり原因と結果とに関わるのだ。ハムレットが持つ恐ろしさ、それは原因と結果にはあらゆることが代入可能であるにもかかわらず、しかしなお原因と結果という制度は残ってしまう、そんな恐ろしさなのだ。
『血』において父親を安楽死させたヴィセンテの弟こそハムレットである。ヴィセンテとその恋人が知らぬ間に父親を殺し、さまざまな厄災が彼に訪れる。そのひとつひとつを自分の空っぽの身体に入れ、ひとつひとつに結果を出してゆく。だから彼はラストでモーターボートに乗って逃げてゆく。それは因果関係からの逃げではない。どこへ逃げるのかなど示されることなくフィルムは終わり、だからハムレットのごとき犬死には決してせず、彼はあらゆる因果関係を引き受けて「世界でもっとも偉大な発明」など知らない振りをして、モーターボートを運転しはじめたのだ。

松井宏