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March 30, 2004

『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』蓮實重彦

[ book , cinema ]

野球はともあれ、フットボールを論じる蓮實重彦に感じる違和感はどこからくるのだろうか?確かに書いてあることは「正論」だし、まちがっていない。オリヴァー・カーンがチャンピオンズリーグの対レアル戦でロベカルのシュートをトンネルしたとき、蓮實重彦は、「私の言ったとおりでしょう」とほくそ笑んだにちがいないし、この書物に書き下ろされた一文でそのことに触れている。神戸でプレーする(もうしない?)イルハンのダメさ加減を見て、ロナウジーニョに比べては失礼だと思うのも当然なのだ。そして日本のスポーツ・ジャーナリズムのレヴェルが低いと断言する蓮實重彦には同感する。同感するのだが、何かが欠けている。高みの見物という言葉が当たるのだろうか?チャンピオンズリーグを深夜まで、否、明け方までライヴで見るのは大変だから、けっこう身体的にものめり込んで見ているはずだ。さもないとすぐに寝そうになる。だから高みの見物といった気分で「時差のある場所」で「世界のフットボール」をフォローすることはできない。ゲームにつきあうのには気合いがいるのだ。でも文章からはその気合いが伝わってこない。臨場感がない。彼の映画批評の初期に見られたような、煽動というか、「ええ、この映画、ぜったい見なくちゃ〜」と批評を読んだ後、すぐに移せる行動を、蓮實重彦のフットボール批評からは見いだせないのだ。ルイ=コスタとかモストボイが蓮實重彦の好みの選手だ。最近は不調だし、ルイ=コスタはベンチが多いし、チャンピオンズリーグのセルタ対アーセナル戦を見ると、モストボイの遅さは「運動の擁護」とは正反対に思える。
ここで小さなことだけど、ひとつ気がついたことがある。蓮實重彦のフットボール批評の対象は、ほとんどが選手であるということだ。ベッカム、ジダン……。つまり、レアルのフットボールとかバイエルンのフットボールとかについての言及がほとんどないことだ。リーガは攻撃的、セリエAはカテナッチオという紋切り型しかここにはない。確かにジダンとかロナウド級の選手になれば、選手についてだけ語れるけれども、フットボールの描く不定型な「運動性」についての言及がほとんどないこと。それが違和感の原因のひとつかもしれない。「運動の擁護」と銘打ちながら、かなり野球と同じような「個人」のスポーツとしてフットボールが見られているように思える。
昨夜アーセナル対マンUのゲームを見た。両チームとも入れ込みすぎて、ゲームとして全然おもしろくなかったし、スコアも1-1で引き分けたが、アンリの決めたアーセナルの1点はほんとうにすごかった。ペナルティ・エリアの外側でパスを受けたアンリは、ボケッと突っ立って、これからどうするのかと思ったら、なんとシュート! インサイドで擦りあげられながらも、信じがたい速度で、ほとんど回転せずボールはゴールネットに吸い込まれていった。周囲の時間と別の速度で時間が流れているような瞬間がそこにあった。このまま逃げ切るかと思われたアーセナルだが、めずらしく逃げ切りをはかったヴェンゲルの選手交代ミス──センターバックを一人加え、ピレスをジウベルトに代え、レジェスをベルカンプに代えた──これでは1点でオーケー、守り切れよとサインを出していることになる。選手たちの入れ込みを見れば、アタッカーをもう一人入れて、もう1点とれよのサインを出したら、おそらくアーセナルが勝ったゲームになったろう。弱気になるな、ヴェンゲル!

梅本洋一