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April 28, 2004

『私生活』高橋源一郎

[ book , sports ]

gen.jpg『私生活』は1999年5月から2003年6月までの日記で構成されている。だがここにある日記は、まったくもって日記とは言い難いものばかりだ。そもそも「月刊プレイボーイ」連載だったわけだから、この日記も月刊である。月刊の日記なんてあるのか。しかも日付にボカシが入っている。「1999年5月×日」と書いてあるだけだ。これでは日記失格だ。
もちろん高橋さんもそこを意識している。前書きで、これは日記ではない宣言をちゃんとしている。小説でも書評でも評論でもない「なにか」を、高橋さんは書こうと思ったらしい。そこで選ばれたのは「シンプルに、『生活』だった。テーマは『小説家の私生活』とした」。つまり高橋さんが書いたものは日記ではなく「生活」(「小説家の私生活」)だということだ。けどその違いはなんなのでしょうか?
高橋さんは言う。「作家の日記は、作家の私生活を書いたものだ」。ところがこの『私生活』の一編一編は日記ではないらしい。いわく「自分の好きなもの、好きなことを書きながら、少しずつ、身の回りで起こったことを書こうと思った」ものだと。わからない。整理する。まず日記=私生活を書いたもの。高橋さんはこの図式を提示する。でも、好きなものや好きなことを書くことは日記ではない、と。つまり好きなものや好きなことを書くことは、私生活を書くことではない、と。じゃあ、なんなのだ、好きなものや好きなことを書くことは。それに私生活を書くことってなんだ。
ロラン・バルト、特に晩年のロラン・バルトは好きなものや好きなことを書き続けた。でも彼の「好き」には「好きにならざるをえない」という捩れのような厚みのようなものが含まれている。その、ときに笑えるほどの捩れのような厚みが、ロラン・バルトその人であるような。言い換えれば「私生活」とはその捩れでしかないような、そんな捩れだ。だから、バルトに日記は必要なかった。
高橋さんは(もはや)バルトではない。バルトになれない人が「自分の好きなものや好きなこと」を月1回書くべきではないし、それをまとめて出版すべきではないと思う。高橋さんもそこを意識しているのだろうか、2004年1月から公式サイトで、毎日きちんと、日記を書き始めた。それは『追憶の1989年』とは懸け離れてつまらない。でも高橋さんはいま毎日(少し更新は遅れているけど)日記=私生活を書いている。それによって、もしかしたら(再び)捩れは生まれるかもしれない。

松井宏