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May 16, 2004

『リアリズムの宿』山下敦弘

[ book , cinema ]

自主映画の脚本家と監督が、お互いにほとんど面識もないままに、旅を始めることになる。『リアリズムの宿』はこのように始まる。旅を続けていくうちに、次第にふたりの距離は縮まっていく。また、浜辺で出会った不思議な少女を巡るやりとりが物語を活気づける。3人は、これといった目的もないままに鳥取県のとある温泉街をふらふらと歩き回る。
このように書くと、ダラダラしていて退屈な映画のように思うかもしれないが、実際はその逆で、非常にテンポがいい。なぜなら、この映画はエピソードの連鎖だけでできているからだ。ある状況があって、そこで何かが起きる。すると、その状況が少し変わる。だから、ダラダラしてはいるが一端そこに流れている時間に身を任せてしまえば面白くてしょうがないといったロードムービーとは『リアリズムの宿』は異なるだろう。『リアリズムの宿』における旅はたんに与えられた状況でしかないように思う。そこで何かが起こる。
ロードムービーとは何かという定義は難しいが、ヴィム・ヴェンダースの『さすらい』に流れていたような無為ではあるが濃密な時間がここには微塵もない。少なくとも『リアリズムの宿』に流れている時間は無為ではない。つねに、次につながるためにある。たとえば、まったく魚を釣ることのできない釣りの場面は、その日に泊まることになる旅館の主人でもある胡散臭いインド人と出会うためにあるというように。エピソードがエピソードを呼び、それらが滞りなく連鎖していく。
男ふたりに女ひとりという主な登場人物の設定からしてこの映画は古典的な映画の伝統を遵守しているだろう。『リアリズムの宿』は、ある物語を語ることよりもむしろひとつひとつのエピソードをどう描くのかに主眼を置いているかにいっけん見えるけれども、次へ次へというエピソードの流れを見ていると、映画が停滞し、無為の時間が画面に現れてしまうのを恐れているかのように感じた。とりあえずある状況を設定し、そこで何かを起こさせる。そして少し変化した状況でまた何かを起こさせる。それを繰り返す。つまり、私たちが『リアリズムの宿』に見るのは、かつて安井豊が分析した「構造の時代」の凡庸な反復ではないだろうか。

須藤健太郎