『花とおなじ』渚にて
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贅沢であるとは一体どんな状態のことをいうのだろう?渚にての音楽を聴くとそんな想いにとらわれてしまう。
リマスタリングまでは徹底してアナログ録音にこだわり、最小限の人数で時間をかけてレコーディングするという方法、それ自体が贅沢であるという見方もできる。だけれど、そうやって制作されたものだから贅沢な音楽になるというわけではあるまい。たとえば、彼らの盟友でもあるマヘル・シャラル・ハシュ・バズがその編成を大所帯化しつつ、より脆く頼りない音をつなぎ止めようとする様も、ある意味すごく贅沢なことだ。
そもそも渚にてが(あるいはマヘルが)つくるものは贅沢な音楽なのだろうか?たぶんこういう音楽こそ贅沢と言うべきものだ。と思いつつも「贅沢」という言葉を使うのは憚られる。それは、渚にての音楽を指して、彼岸だとか幻想だとかいった言葉が使われるときの居心地の悪さと少し似ている。
なくてはならないものは時としてなくてもいいものに思える。彼らの音楽がなくてもたぶん困ることはない。それはそれを聴く誰かの周りにただあるだけだ。そんな小さな空間のためだけにある音についてあれこれ言う必要はない。身動きもせず物思いもせず聴いている。ただ、その音が鳴り止んだとき、彼らの確固たるその声とその手とその意志に敬意を払わずにはいられなくなる。
渚にて、最高傑作。