『ロスト・イン・トランスレーション』ソフィア・コッポラ
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ビル・マーレーが初めに目にする東京の風景は、靖国通りを走る車の窓の外に流れるネオンの数々である。印象的ないくつかの電飾がコラージュされた後に、彼自身が出演しているひとつの看板に視線は止まり、同時に彼の乗る車の運動も止まる。だがそこでは、彼が目にする光景と車の運動はただ互い違いに映し出されるに過ぎず、連動して映画を運動させはじめることはない。車の運動と窓の外の光景によって靖国通りがひとつの道程に変わるということはないのだ。ここで示されるのは建物の外見が示すものが、その内部と絶対的に切り離されているという当たり前の事実に過ぎない。風景は皆、向こう側を覆い隠す障壁のようなものとしてある。近くにあれば視界を遮るし、遠くにあれば背景としてきれいな画になるかもしれないが、本質的には何の違いもない。
地下鉄や新幹線、あるいは徒歩や駆け足と、いくつかの程度のスピードで、スカーレット・ヨハンソンとビル・マーレーは東京を移動するが、彼らの運動と風景との間に分かち難い関係性が生まれることは一度もない。監獄のようなホテルの窓から眺める風景がそのようなものであるのは仕方がないとしても、ふたりが束の間の解放を味わうはずの中目黒の線路沿いの道でさえ、視界をそれ以上動かしたりずらしたりするのを恐れているかのような閉塞感がある。最後にふたりが再び出会う人込みさえ、彼ら以外の人間はつい立てか背景に過ぎない。
たとえばジャック・リヴェットの『シークレット・ディフェンス』では、都市の風景は電車の運動と切り離せず、郊外では車の運動と切り離せない。サンドリール・ボネールがひと駅分じっとみつめ続ける窓の外の町並みや、イェジー・ラジヴィオヴィッチの運転する乗用車のフロントガラス越しの風景が、ひとつの道程をつくり出していた。固有の速度と、固有の景色。
結局のところ、ビル・マーレーがふざけて言ったことが最も的を射ている。彼らは監獄に閉じ込められた囚人だし、彼らの看守役を勤めている日本人たちはふざけている。だったら、もっと真剣に脱獄計画を練るべきだった。看守がふざけていられなくなるくらいに。