« previous | メイン | next »

June 7, 2004

『キル・ビルvol.2』クエンティン・タランティーノ

[ cinema , cinema ]

その『Vol.1』を大批判し、多様な場で物議をかもしたので、やはり『Vol.2』についても書いておかねばならないだろう。
蓮實重彦が何度も書いているとおり『vol.1』と『Vol.2』は通しで見られるべきものであることは、この『Vol.2』が証明している。『vol.1』は、『vol.2』への序章であって、独立した1本のフィルムとして見ると、そのアクションの連続は、『Vol.2』のメロドラマへの準備だった。『vol.1』ではひたすら無償だったアクションが、『vol.2』ではその官能性を増し、ラストでのビルとの再会を準備しているだろう。
そしてビルを演じるデイヴィッド・キャラダインは、このフィルムで存在感を示している。たとえばケント・ジョーンズは『ジャッキー・ブラウン』についての文章のタイトルを「老優のリサイクル」としていた。たとえばメリル・ストリープでさえそうなのだが、ハリウッド映画において、ある年齢を超えると、役柄がなくなり、テレビしか主な活動の場が与えられなくなる。『ジャッキー・ブラウン』ではそうした活躍の場を失った老優たちにその力を見せる場が与えられている。それがケント・ジョーンズの論旨だった。おそらく『Vol.2』ではデイヴィッド・キャラダインがそうした老優のリサイクルの筆頭だろう。クンフー映画マニアでは私は彼の姿を『ロング・ライダーズ』以来本当に久しぶりに見たことになる。そして彼の立ち居振る舞いは立派に「アメリカ映画」していた。ガジェットの集積から、アメリカ映画のリサイクルへと『キル・ビル』は向かっているのだった。『明日に処刑を』『ミーン・ストリート』などスコセッシの初期の傑作を支えはしたが、以降、弟のキースと共にロバート・アルトマンの70年代のフィルムに出演したが、キースに比べるとアルトマン作品に出演はずっと少ない。そんなデイヴィッドの姿は、彼らの父ジョン・キャラダインの晩年と重なると言ってもいいだろう。『怒りの葡萄』『駅馬車』等でジョン・フォードのフィルムを脇から支えたジョン・キャラダインは、晩年になって多くのB級、Z級フィルムに出演しているが、『キル・ビル』のデイヴィッドは、父の晩年を反復しているように感じられる。だが、父ジョンと決定的に異なるのは、ジョンにはフォードという決定的な後ろ盾がいたのに対し、デイヴィッドは──キースのそれはアルトマンだろうが──、そうした決定的な後ろ盾を欠いていることだ。
同じように「映画のリサイクル」を促すようなフィルム作りを行うティム・バートンとタランティーノの差異はそこにあるのかもしれない。映画の不在から出発し、ある導きの糸を仕掛けることで、別の世界に映画を現出させる過程こそをフィルムにしたティム・バートンに比べて、タランティーノには精神的な父親がいないのだ。ベタな「引用」はあるが、「系譜」を欠いている理由はそんなところにあるのかしれない。

梅本洋一