『蝶採り』オタール・イオセリアーニ
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インドのマハラジャを乗せた列車が到着するシーンによって幕をあけるこのフィルムはまぎれもなくトランジットの映画だ。ピアノ奏者の老婆が到着すると同時に賛美歌の時間になり、曲が終わると同時に彼女がさっさと席を立って自転車に乗って帰ってしまうところなど、とてつもなく正確な数種類の時刻表を熟知してそれを乗り継ぎ、目的地まで最短時間で到着するようなアクションだ。あるいはとてつもなく不正確なダイヤの乱れを利用して、予測される移動時間より遥かに短い時間で到着するような、と言った方が良いだろうか。
『月曜日に乾杯!』で利用される乗り物が車や船だけに留まらず、ゴムサンダルや口に加えた煙草さえも登場人物たちは乗りこなすように、『蝶採り』においても背負ったトランペットやイヤフォンが接続されたラジオもまた乗り物なのである。と同時に速度が破壊力である限りにおいてそれらは武器でもある。武器にして乗り物である車椅子と半ば一体化した資産家の老婆は最強のサイボーグでもある。彼女が遠く離れた標的に向って回転式拳銃を連射する様は、『復讐』の哀川翔並に淡々としている。
彼女の死とともに乗り物=兵器はひとり歩きし始める。彼女に死をもたらすかのようなあのスケスケの亡霊は肉体という乗り物に振り落とされた存在なのだとも思えるし、死の直後のシーンで映し出される、騎手なしで走り出す一頭の馬もまた象徴的な存在だ。権力と軍事力のシンボルである王や戦士の乗り物が乗り手なしで走り出すのをとらえたリュプチャンスキーのカメラは、北欧神話の主神の愛馬が死を意味していたことを思い出させる。
電線を伝わってロシアまで届く電報は検閲の視線を免れず、電話越しの情報が中継地点で文字どおり漏れ出してしまう。ラジオから聞こえる爆破テロのニュースの中に交通事故のニュースが紛れ込んでいるように、もはや安全な乗り物などなく、その速度は容赦なく人々を襲う。不動産でさえ不動なものではなくなってしまうだろう。遺産相続とは立派な城や家具の類を受け継ぐことではなくて、小さなアパートの部屋の壁いっぱいに写真や絵画をはり巡らすことを意味する。
ひとつの乗り物からもうひとつの乗り物に乗り換えた後で、自分が最後の乗客だったことに気付く。そのときには、もう遅い。