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July 17, 2004

『群盗、第7章』オタール・イオセリアーニ

[ cinema , cinema ]

記憶によって歴史は語られるのかもしれない。男に食事を与える老婆の姿に、先日見たばかりの『蝶採り』を思い出してしまう。買い物籠をぶら下げ颯爽と自転車を乗りまわすあの仏頂面は、きっと大きな屋敷へと帰っていくんだろうなぁ、と考えてみたり。壁中にかけられた銃を見て、「変わった趣味」だとため息をつくまた別の老婆の言葉にも、『蝶採り』の屋敷の壁中に貼られたたくさんの絵画や写真を思い出す。私の個人的でしかない記憶が、映画の中に溢れ出す。どこかで見たような気がする。そんな思いによって過去と現在が繋がれようとする。自分によく似た男が描かれた絵を見つけ、かつて二度も結婚していた女性とすれ違う。「どこかでお会いした気がするのですが」、男は思わず声をかける。次に予想される言葉は「勘違いでしょう」とか「私もそんな気が」とか、とにかくこれまでの歴史を総括するような展開になることが期待されるのだが、彼女の口から出た言葉は、「あなたの話す言葉を知りません」だった。記憶によって繋がりそうに思えた時間の流れが、たった一言によって再び断絶される。
『群盗、第7章』の冒頭は、試写室らしき場所に男たちが集まり、映写技師がフィルムを回し始めるところから始まる。つまり、『群盗、第7章』は映画の中の映画によって構成される。酔っぱらった映写技師によって、フィルムは間違って上映されてしまう。すぐに間違いに気付き初めからやり直されるものの、一度彼の姿を見てしまうと、私たちの見た映画が本当に正しい時間軸に沿っているのかと思わず不安になる。阿部和重の『インディヴィジュアル・プロダクション』では、映写技師の男が一本のフィルムの合間に、別な映画のフィルムから切り取った何コマかを付け加えこっそりと上映していた。映画の観客はいつも、映写技師に対してある疑念を抱いている。
“私が今見ているフィルムは本当に本物なのだろうか?”
観客は、目の前のドラマを好き勝手に操作できるかもしれない映写技師の姿を見たくはない。フィルムを掌握する人物が、酔っ払いの男だとは思いたくない。本物だ、という前提で観客は映画を見る。たとえば何らかのトラブルによって音が聞こえない映画を見せられても、それがトラブルだとアナウンスされるまでの間、観客は辛抱強く映画を見続けるだろう。音が聞こえない映像が、本物のフィルムだと信じながら。もちろん、すべての信頼と疑念が映写技師一人にかけられるわけではない。編集と上映との間に介在するすべての人や事柄を、観客は信頼しまた疑い続けるのだ。
映画を見終わった男たちの一人が、「ラストを見たい」と言い、「たった今見たじゃないか」ともう一人の男が答える。どれが本物のラストだかわかったものじゃない。過去と現在との繋がりも、ラストシーンも信用できない。それでもこの映画を「おもしろかった」と堂々と言えるのは、一つ一つのショットがどうしようもなく感動的だからだし、道路に座り込んだ男たちの歌声が確かに聞こえていたからだ。本物のラストシーンがわからなくてもいい。悪党たちが映されてさえいれば、あとは記憶によって映画をつくり出せばいい。

月永理絵