『ワイルド・レンジ 最後の銃撃』ケヴィン・コスナー
[ book , cinema ]
遠くからやってくる者を見守るように、カウボーイたちが移動するのはあまりにも広大で美しい山野だ。二人が街へ入ると、上空に構えられていたカメラはぐっと彼らに近付いていく。ただ単に、遠くを見渡す必要がなくなったせいでもある。街と呼ぶにはあまりにも狭いその場所で、山を隔てて向かい合った敵の姿が、扉一枚向こうに迫っている。
軽々と大河を渡ってみせた二人が、カフェと道路の間に出来た水たまりを超えることも出来ない。彼らが怯えるのは、そこが河ではないからだ。ごみごみとしたカフェや酒場で、彼らは窮屈そうに身を縮めているしかない。彼らがいた山と街とが対立関係に置かれ、医者の姉弟が住む家がその中間に位置する。カウボーイたちと牧場主との戦いが始まると、街の住民は山へ逃げ、牧場主はこう叫ぶ。「あいつらに味方した奴は、雪山に追い立ててやるぞ!」。それは単純な侵略戦争だ。最終的に街へ住むことができる者が勝利者であり、カウボーイたちも含めて、山に住みたいと思う者は誰もいない。この構図はあっという間に逆転される。西部劇での最大の見せ場である銃撃シーン、問題は互いの陣地をどうやって奪い合うかだ。驚いたことに、牧場主に雇われた殺し屋は広場の真ん中であっさりと殺され、残りの者たちも広場を駆け回ることしかできない。街に慣れているはずの男たちが、単純な運動を繰り返すことしかできず、広野を駆け回っていた男たちが街の構造を巧みに利用する。互いの陣地を取り合うための戦いではなかった。どちらが陣地を利用できるか、最初の一撃で決着は既に着いている。
多対一の戦いが許され、一対一の戦いは許されない。女医のスーを人質にとった男を、ケヴィン・コスナー演じるチャーリ−は真正面から撃ち殺す。そのやり方は明らかに正当だが、彼らの間には気まずい沈黙が訪れる。一人立て籠った牧場主に対して、街中の男たちが銃を乱射する。リンチにも似た暴力が許されるのは、それが殺しではなく戦闘の最中だからだ。戦闘が終わり一対一で向かい合えば、もう引き金を引くことはできない。これらのルールが当然の倫理として唱えられるとき、その明確さに漠然とした不安を覚えてしまう。
戦いを終えたチャーリ−が目にするのは、一人の男を追い回し撃ち殺す住民たちの姿と、患者たちに囲まれたスーの姿だった。広場の真ん中で途方に暮れてしまうのは、生き残ってしまった時から本当の戦いが始まると気付いたからだ。医者の家へ群がる住民たちの姿が映し出され、西部劇は終わりをつげる。敵をどう殺すかなど人々は気にもとめない。味方を生き残らせることが重要なのだ。早撃ちである必要はなく、手術ができること、それが英雄の条件となる。生き残った者たちの視線が映画を支配する。死へと向かう銃撃戦は終わったのだ。彼は無様にも生き残り、溶けたチョコレートがシャツを汚す。彼に残されたのは、ラブロマンスを忠実に演じること、ただそれだけだ。