『誰も知らない』是枝裕和
[ book , cinema ]
団地の一室。扉からではなく、ベランダに出る窓からでもなく、トランクという第3の入り口を使って兄妹が勢ぞろいする。引越しで始まる『誰も知らない』は、引越しの準備をし続けるフィルムだ。冒頭2カット目から、執拗にカメラは手を追いかける。兄妹たちはその手で対象の質感と大きさとを感じ、それに従って仕分けする。台所のテーブルの一角には小銭が集められ、流しには洗い物が、寝室には子供たちがもののように横たわっている。ここでは、引越しの準備をしてここではないどこかに出発しようとすることと、その場に留まり続けて生活し続けることとがほとんど同義になる。
子供たちは自らの手に余る大きさのものを触ってしまいがちで、長男は自らの手をくるんでくれるグローブを欲しがり、長女の指のつめはマニキュアを塗るには少し小さすぎる。彼らと彼らの部屋を訪れる女子高生を含めた3人は身長もほとんど同じで、互いの手をくるみあうことも出来る。だが、この映画の中の本当に美しいショットは、ラストに女子高生が長男の手を包み込むシーンではなくて、末っ子の妹がカップラーメンの容器で作った鉢にマジックで名前を書くときに長男がそっと手を添えてやるところだ。グローブは自分の手を保護してくれるより大きな手ではなくて、どこにもいない妄想の父親をでっち上げてそれを模倣する、その手の想像上の大きさなのだ。彼は気づかないうちに大きくなった手を受け入れる。
恥ずかしながら、兄妹4人がそろった時点で、号泣する準備は出来ていた。長女のあらゆるコンテクストをぶっ壊してただ音だけが残るような声がいい。不用意に上へと向かう兄の視線を最後の最後で地上に引きずり戻す弟の表情に、このキャストは完璧だとも思った。だが、ある種の過剰さ(「臆面のなさ」)が徹底して排除されたこの作品であってもまだ何か余計なものが残っている気がして、結局号泣はしなかった。この完璧なキャストで余計なものを極限まで殺ぎ落とした90分ヴァージョンを想像する。いや、本当に見たいのは、余計なもの以外を殺ぎ落とした悪夢のような9時間ヴァージョン、12時間ヴァージョンのほうかもしれない。