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August 23, 2004

『夢の船旅 父中上健次と熊野』中上紀

[ book , sports ]

yahagi.jpg暇があれば旅をする。彼女はとにかく旅が好きだ。そんなに好きなら、旅の出来事を小説のネタにすればいいのに、と思う。旅の数だけ小説が書ければどんなに楽か。けれど、6月に出版された『いつか物語になるまで』(晶文社)を見ると、簡単にできそうでこれが実に難しいのだという。旅の出来事は“私”の目の前で勝手に展開されるだけで、“私”が介入しなくてもいいようなことばかりだからだ。“私”が参加しない物語はない、と彼女は言い、旅の記憶はエッセイとして書くしかないようだ。書くことと旅と、ふたつは繋がっているようで繋がっていない微妙な関係だ。
父の職業は、と聞かれると、小さな娘は字を書く仕事だと答える。床に這いつくばり集計用紙に小さな文字を埋めていく姿から字を書いていることはわかったが、本を書くことには結びつかないのだ。字がいつか言葉になり、そして物語になる。『夢の船旅』(河出書房新社)は、エッセイとして書かれた『いつか物語になるまで』とは趣が異なり、小説ではないがどこか物語に近い。帯文で声高に主張されているとおり、父である中上健次の故郷熊野にまつわる記憶が書かれている。どこにも属していたくないという思いと、結局は連れ戻されてしまう運命とを同時に抱えたまま、その男は生涯熊野から離れることはできなかった。80年代頃から、父は東京の家族の元を離れることが増え、海外へも足を運びながら東京と熊野とを何度も往復していた。<何かを追いかけるように、そして何かに引き寄せられるように>彼は運動を続けたのだった。ハワイの地に別荘を立て、母親や親戚全員をそこに招いたことを思い出し、今思えば父はハワイへ熊野を連れてきてしまったのだ、と娘は振り返る。ほとんど家に帰らず絶え間なく飛び回っていた父だが、家にはいつもその存在が残っていた。彼はまるで亡霊のようだ。彼女が語る思い出は、実際にそこにいた男ではなくそこにいなかった男に支配されている。残映によって記憶はつくられる。
物語はまだ終わらない。“私”が参加した物語が、“父”の物語が、そして熊野の物語が流れるように在り続ける。様々な媒体で掲載された文章を集めた本作は、そのせいか章によって重複する内容が多く辟易する部分もある。だが、繰り返される言葉にはいつも“私”の存在がつきまとう。言葉が寄せ集められ、いつか物語になる。

月永理絵