『レイクサイド マーダーケース』青山真治
[ architecture , cinema ]
When I looked out my window
What do you think I see
強い光と肌の露出によって『レイクサイド マーダーケース』は始まる。フラッシュの光にも瞬きすることなく曝されたままのモデルの眼球。光は剥き出しの網膜に灼き付いただろうか。反応からは何ともうかがい知れない。まるで光が確かにフィルムを通過したにもかかわらず、そこには何の痕跡も残らなかったかのように。その場にいる誰もが、ありもしないものとして振る舞うその強い光に、ただ役所広司だけが裸で曝されている。
きちんとした身なりで面接試験の練習を行う親たちの中へ、彼が平服で紛れ込んでいくことによって彼は妻に反感を買う。ここでの親たちの正装は明らかに喪服なのであり、いったい何の喪に服しているかといえばその対象は明らかに子供たちである。伝統的に見る存在である子供。それは役所広司の愛人のカメラマンがまるで生け贄のように殺されてしまうことによってもわかる。「かつて子供だった」彼女が殺され、もうひとりの「かつて子供だった」者・豊川悦司の顔はほとんど死人、社会的にもこの場にいる親たちの他にはほとんど価値を持たない存在である。対象である子供をブラックボックスにして、親たちと「かつて子供だった」者たちによって進められるこの葬儀は、同時にゲームなのだ。柄本明のストーンズTシャツのような大人のしたたかさを持たない役所広司が、ひとりだけ場違いなのは当然だ。ひどく重大なものとして扱われる子供たちは、その実絶えず未来に投機されるものであり結果現実にあるこのものとしては見られることがないのだが、そのゲームのルールを役所は理解できないでいる。光を吸収する黒い背広の隙間から赤い舌がのぞいている。
強い光を見て見ぬ振りをすることができない役所広司がゲームの規則を理解できないとしても、彼もまた何も見えない存在であることには変わりない。他の人間がどんな光にも感光しないフィルムならば、彼は過剰に化学反応を起こして真っ白に焼けてしまうフィルムだということにすぎない。彼の態度を決定的に変化させるのは、妻である薬師丸ひろ子が見るものだ。彼女は確かに子供を未来へ投機している。ただ彼女はそれを想像しているのではなく、確かに見ている。窓から射す明け方の白い粒子を確かに見て、『レイクサイド マーダーケース』が『月の砂漠』と同様に夜から朝にかけての映画なのだと知る。
だがこの一連の葬儀=ゲームは、死者を揺り起こすための儀式でもあったのだ。ゲームの規則を最後に全否定して、あらゆる光の痕跡を復活させるネクロマンシー。見過ごされたものはない。あらゆるものを見ろ。