『珈琲時光』ホウ・シャオシェン
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高崎の実家のシーンで、台所から縁側まで吹き抜けるがらんとした空間に突然雷の音が響く。空にはまだ崩れる様子はない(nobody15所収のインタヴューで、この音は別録りしたものを編集したのだと語っている)。カットが変わり、一青窈が雨の中を自転車で走ってくる。雨宿りし、画面には顔の映らない女性と画面に登場しない猫(おそらく)の話をする。ここで初めて江文也の曲がオフの音源で流れ、その音が流れたまま時間的にも空間的にも飛躍した次のカットに繋がる。
それはもちろんヒロインである一青窈の心境を暗示する心象風景というような直接的な表現ではない。妊娠と未婚の母になるという決意と、それが宙吊りになったまま進んでいく時間の不安な感じに影響されて雷鳴が響くというよりは、一青窈や余貴美子や小林稔侍が天気が崩れることを無意識に(本能的といってもいいなにかで)あらかじめ感じ取っているかのようなのだ。ドミニック・パイーニがエリック・ロメール『クレールの膝』とジャン・ルノワール『草の上の昼食』を結びつけて語った、「気象学が感情や官能の急変と調和しているルノワール的な場所とアクションの一貫性」にも通じている。しかし、この映画に出てくる人物たちはもっと諦めにも似た方法で気象の変化を薄々感じ取っている気がする。それが「生活」なのかもしれない。
昨年、小津シンポジウムで見たヴァージョンとはかなり編集が変わっていた。都電荒川線に降り注ぐ八月の光はノスタルジックな安心をもはや与えてくれず、天気図のようにスタティックな構造を持たずにもっと柔らかく、もっとダイナミックなものである「天気」の変化を、刻一刻の光の強弱の変化を見つめなければならない。
山手線と京浜東北線がすれ違うとき、一青窈と浅野忠信はお互いの存在がすぐ近くにあることに気づかない。それから山手線が何周くらい回った頃だろうか、すっかり眠りこけている彼女の車両に彼が乗り込むとき、まだ日は高いが、確実に傾いている。耳の機能を拡張した機械を持ったふたりの男女はホームに降り立ち、細分化され同時に普遍的でもある時間の中に、全身で浸っている。
ユーロ・スペース他にて上映中