『珈琲時光』ホウ・シャオシェン
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久しぶりに神保町の駅で降りてみる。古書店がずらりと並んだ光景は以前来たときとまるで変わっていないが、どの店の窓にも同じポスターが貼られている。言うまでもなく『珈琲時光』のポスターだ。『珈琲時光』という映画は、台湾の監督から見た日本といううたい文句や、小津安二郎の名前からも離れ、神保町の映画、としてなりきっているようだ。
一青窈演じる陽子が、有楽町駅の出口付近で、お腹に子供がいることを肇(浅野忠信)に告白するシーンがある。駅を出てしゃがみ込むと、またゆっくりと歩き出す。心配げに声をかける肇の横で、彼女は「大丈夫」と話し始める。この時点で、いや新宿駅のホームでしゃがみ込んだ時から、観客は彼女の具合の悪さの原因が何かわかっているし、もうすぐその事実が明かされるだろうことも予測がつく。だから、あとはどんな風に彼女の口からその言葉が飛び出すのか、に託されている。カメラの前を電信柱だったか看板か、何かが突然映り込み、ふたりの姿は一瞬画面から消えてしまう。そして姿が消えた一瞬の隙に「妊娠してるから」という言葉が聞こえてくる。次に私達が見るのはスタスタと歩く彼女の姿と、その隣で彼女の様子をうかがう彼の姿だ。喫茶店に入ったふたりの間には、まだ先ほどの気まずさが残っていて、肇はせわしなく動き回る陽子の姿を、ただ目で追うことしかできない。話しかけるタイミングを見つけられず、結局は何も言うことができずに終わってしまう。『珈琲時光』は、ゆったりとした時間なんかではなく、緊迫した時間の連続によって成立している。この一瞬を逃してしまえば次の機会は絶対にない、そんな切羽詰まった状況だ。京浜東北線や山手線、中央線、都電荒川線。移動手段として何種類もの電車が使用されるが、それは移動時間を描くためというよりも、むしろそれぞれの場所を孤立させるために使われる。京浜東北と山手線に乗ったふたりがお互いに気付かないまますれ違ったなら、それはその瞬間で終わりなのだ。彼の働く古書店へ行けば肇に出会えるのだし、そこにいるはずの人が確実にそこにいるけれど、電車の窓越しにすれ違うこととそれは、何かが決定的に違う。
陽子の部屋が何度も映されるが、玄関だけが避けられている。高崎の実家でも同様に。陽子の部屋に大家さんが訪ねてくるときも、その声ははっきりと聞こえてくるのに、姿を見ることはできない。肇が、両親が訪れるうちに、彼女の部屋は少しずつ見せる範囲を広げていく。『珈琲時光』は日本映画でもないし、もちろん神保町のキャンペーン映画でもないけれど、固有名の並べられた映画ではあるのだろう。固有名を繋ぐものは何一つ見えないけれど。