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October 14, 2004

『フランス映画とは何か?』プログラム企画:ドミニック・パイーニ
<ジュ・テーム、そして言い争いして‥‥‥>

[ cinema , sports ]

『ジュ・テーム、ジュ・テーム』アラン・レネ
『そして僕は恋をする』アルノー・デプレシャン



「力一杯走って、突然立ち止まった。ある事実に気付き愕然とする。ずっと前からすべてに敵意が満ちていたんだ。」直立したまま固まった男は言う。

『そして僕は恋をする』の中で、ポールがジョギングをするシーンが何度も挿入される。『ジュ・テーム、ジュ・テーム』では、男が海の中を泳いでいる。タイムマシンの試作を試すために、過去に恋人を失ったらしい男が実験台として装置の中に閉じ込められる。『ジュ・テーム、ジュ・テーム』は、記憶と時間を巡る映画だ。男の過去を示すショットが、切断され、つなぎ合わされる。男の過去、あるいは歴史を証明するのはいつも女たちの存在だ。どの女と一緒に映っているか、それだけが時間を定める手がかりとなる。シーンが変わるそのあまりのスピードに、次第に時間の感覚が失われ、女たちの見分けがつかなくなっていく。そして、男は自分の存在を見失うことになる。彼が消えた、と研究員たちが騒ぎ立てる。
なぜこの二本の映画が組み合わされたのか。どちらの映画を見た後も納得したわけではなかった。そもそも、二本を続けて上映するわけではない今回のプログラムでは、意識しなければただ一本の作品を見ているのと何が違うのか、プログラミングされていることすら忘れてしまう。しかし、『そして僕は恋をする』を見終わってしばらく後、私は『ジュ・テーム、ジュ・テーム』のいくつかのショットを思い出していた。あなたは死人になったのよ、と叫ぶ女と、彼女を殺していないがやはり殺したんだ、と呟く男。ソファに横たわり自分の過去を語る男と、粘土のような装置の中で「ジュ・テーム、ジュ・テーム」と呟く男。記憶を引っ張り出すことで、二つの作品がとてもよく似通っていて、それゆえにまるで異なる映画であることに気付かされた。
ポールの存在はエステルの中にあったのだ、とデプレシャンのナレーションが聞こえてくる。二本の映画の決定的な差異は、自分の存在を見つけられるかどうか、という結末にある。ポールはかつて自分が付き合った女たちを見い出すことで、自分は確かに存在していたのだ、と知らされる。あなたが死んだの、そうエステルが叫ぶとき、ポールの現在と過去がはっきりと示される。いなかったことにはできない、けれどもうここにはいない人間は死人になるしかないが、それは同時に生きていたという証拠にもなる。タイムマシンに乗らなくとも、ポールは幼少時代の自分を見つめ傷ついた従兄弟に語りかけることができる。一方で、過去の記憶に溺れながら自分を見失った男は、死人になることさえできずにいる。

「映画作品というのは時間とともに生まれるものであり、それらを比較することは、概念化することでしか、つまりそれについて書く行為によってしか実現できないだろう。」(ドミニック・パイーニ)


プログラミングによって提示されたものは、表面的な類似点だけではない。「映画を比較するにはどうすればよいのだろう?」そんな問いかけが答えを持たないまま提示される。ひとつひとつのショットが混同され、時間とともに映画が形成される。

月永理絵


特集:フランス映画とは何か?
プログラム企画:ドミニック・パイーニ
東京日仏学院にて上映中