『ソウ』ジェームズ・ワン
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老朽化した地下のバスルームの対角線上に鎖で拘束された二人の男、アダム(リー・ワネル)とローレンス(ケアリー・エルウェズ)、二人の間に横たわる男の死体。その死体の手に握られたテープレコーダーで、二人は殺人ゲームの仕掛け人である「ジグソー・キラー」からのメッセージを再生する。アダムは彼に死を宣告され、ローレンスはタイムリミットまでにアダムを殺さなければ、監禁されている妻と娘を殺すと告げられる。この映画は、「ジグソー・キラー」によって密室内に仕掛けられた様々な脱出への手がかりを、一時的に運命共同体となった二人の男が見つけ出していくという「内側の物語」と、ローレンスの妻と娘が監禁されている部屋、「ジグソー・キラー」に相棒を殺されて頭のおかしくなった黒人刑事タップ(ダニー・グローヴァー)の部屋、さらに地下室全体を統御している「男」のいる部屋で起こる「外側の物語」によって構成されている。そこにアダムとローレンスの回想が挿入されていくことで、映画はジグザグに進行していく。この構造自体は決して目新しいものではない(例えば昨年公開されたルイス・マンドーキ監督の『コール』もほぼ同じような構造の映画だった)。
だが、『ソウ』はそのしつこいまでの「社会性」において傑出している。多くの観客は次々に吐き出されるアメリカ社会の「記号」の数々に閉口するだろう。地下室を映す監視カメラ、アダムの盗撮、刑事タップの覗き見=プライバシーの問題。「ジグソー・キラー」の隠れ家にある「K2K」という有色人種排斥団体を連想させるギャング団の落書き(彼を追っていた刑事は黒人と東洋人)=人種差別の問題。アダムを殺す道具として用意された煙草(現在の合衆国における喫煙の問題を述べる必要はないだろう)。末期癌の患者を「教材」として扱う病院=医療の問題。幼い子供のために幸福を装う夫婦=家庭の問題。現代社会に存在するあらゆる問題が、矢継ぎ早に提示される。しかし、それらは最後まで混ざり合うことなくそのまま残ってしまうので、まるで油(あるいは社会性)のみが分離して表面に膜を張ったスープのように、この映画は異常にこってりしている。
監督のジェームズ・ワンと脚本家でもあるリー・ワネルは、はたしてこの映画で社会的なメッセージを訴えようなどと考えていたのだろうか。考えていたとすれば大失敗だろうが、大失敗であるがゆえに見終わったあと奇妙な可笑しさを呼ぶ。部屋の扉を閉じてゲームオーバーを宣告する「ジグソー・キラー」の後ろ姿は、『捜索者』のジョン・ウェインの背中のように哀愁を帯びることなく、ただ純粋な怒りに満ちている。その怒りこそが、社会的な記号の数々にうんざりしていた私たちを解放する。あとは、ゲームの不毛さと「彼の怒りの正しさ」のギャップに、ただ笑うしかない。