『建築文化』休刊
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建築の勉強を始めた1994年頃は、『建築文化』はなにしろあこがれの雑誌だった。芸術分野を学ぶには、あまりにフツウな僕を含めた大多数の日本の建築学生にとっては、3000円近い建築雑誌は高くてなかなか手がでないのだけど、何号かに一冊、とても気に入った特集号を吟味した上で買ってみたりした。とりわけ個人の作家を特集した号が、仲間内ではいつも評判だった。買って読んでみると、丁寧につくられていることが本当に感じられた。いくつかの世代の書き手によるテキストは、論点が明瞭でありかつ伝えたいことがぎっしりと詰まっている中身の濃いものである。写真のみならずドローイングやスケッチや模型写真も豊富に収録されているのがなおページをめくる喜びを増幅させた。装丁やレイアウトは、さすがに50年続く雑誌らしく、写植感ただよう骨太な雰囲気で、その骨太な土台の上に自由にレイアウトしていく感覚は、今思えば、例えばロシア・アヴァンギャルドのグラフィックのようにも感じられるかもしれない。
そして何よりすごかったのは、雑誌でありながら、各号それぞれが放つ印象が強烈に違うことだった。特集それぞれに対する真摯な思いがストレートに伝わってくる。
背伸びをして買った『建築文化』によって、僕たちは、建築のかぐわしい香りを嗅ぎ、その甘美な体験を追い求めて、背伸びをすることを少しずつ覚えていったのだと思う。
ここ数年の『建築文化』は度重なる編集長の交代が示すように混迷しつづけた。多くの一般紙が建築をブームとして取り上げコンスタントに売り上げるなかで、『建築文化』の雑誌としての速度の遅さ・ムラが問題となり、若手の書き手に集約することで思想としての早さとマーケットの安定を求めたけれど、それはむしろ稚拙さと読みの甘さを印象づけたに過ぎず、たまに取り上げた都市や共同体などという骨太なテーマは、かえって空転した。数人の建築評論家のつくる同人誌的な雰囲気と論調は、作家不在の批評がいかに強度を保てないかということを浮き彫りにし、かつての『建築文化』が放っていた、作家中心の強烈なメッセージ性からはほど遠かった。
バックナンバーでも買いあさろうかしらと思っていたら、建築文化の編集者から電話がかかってきた。話によるとどうも建築文化は不定期の雑誌として存続し続けるらしい。不定期の雑誌とは、つまり良い特集ができたら刊行するという類のものだ。しかも編集長には、妹島和世特集やレム・コールハース特集やジャン・ヌーヴェル特集1−3などの数多くの伝説の特集を組んだ富重隆昭氏の復帰が決まった。
どうやら桜が咲く頃には、あの頃の『建築文化』が帰ってきそうだ。