『血と骨』崔洋一
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革命の炎は交番へと向けられ、見事にそれを焼き尽くす。しかし、燃える交番から走り出た一人の警察官は、一向に怯まず、恐れず、数人の革命者達を跳ね飛ばしてしまう。交番が焼けたからってそれがどうした。彼はそう言うに違いない。
同じような光景を見た事がある。監督は崔洋一。「月はどっちに出ている」(1993年)における岸谷五朗は、勤めていたタクシー会社が燃え盛っている横、空を仰いで笑っていた。岸谷演じる姜忠雄は在日朝鮮人であるが、その中にあって南北統一を叫ぶことは一度もない。在日朝鮮人二世という大きな括りの中で自らを捉えず、固有名内部から始まる問題としてそれを抱えている彼は異質ですらある。父親や母親、自らの血や骨といった個々の連なりの中で、崔洋一が、その始まりを民族や国家に置いたことはない。その生存を競い合うのはどこまでも一個人であり、崔の映画は、常に個へと向けられている。これは崔の根本的な思想であるし、彼の関心は、人と人の手が触れた個々の体温にあり、いかにして自らが立ち続けていられるかということをこそ考えなければいけない。そして、私たちが「血と骨」のビートたけしに圧倒されたのは、暗闇の中、一個の人間として彼と対峙せざるを得なかった為である。あの背中を見せられて、息を呑まない訳にはいかない。しめやかで、圧倒的なあの振る舞いに、対峙した我々は、後ずさり、映画館のシートに体を埋めるほかはない。生存が常に個と個の争いにおいて決する限り、暗闇の中たった一人であの背中と向き合わなければならなかった人間は不運だ。果たしてあの背中に勝てるだろうか。崔の最も大きな関心は、ビートたけしの背中にある。
「血と骨」の警察官は、革命者達を投げ飛ばし、迷わず発砲した。躊躇なんてしない。今年の七月、埼玉県の交番に逃げ込んできた男性は、その甲斐もなく、四人の警察官が静観する中で集団に暴行された。シートに埋まりこんでしまったのは、「血と骨」の異質にも見えた個人のためだし、それでもビートたけしの背中から目が離せなかったのは、それがひどく眩しかったからだ。映画はどこまでいっても人なのだ。
「血と骨」を観終わって映画館を出る。その時、一個の人間として敗北した我々が為すべきことが、食事の他にあっただろうか。