『ポーラー・エクスプレス』ロバート・ゼメキス
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クリスマスイブ、家の前に現れたポーラー・エクスプレス(急行「北極号」)に乗って、子供達はサンタクロースに会うため北極点へと向かう。目的を果たし家に帰りついた少年の「その後」がほとんど描かれていない今作では、サンタクロースが画面に現れることが、旅の終わりと同時に映画の終わりをも示している。しかし、物語の最後に派手に登場してみせたサンタだが、映画を見ている限り、それ以前のどのシーンで登場してもおかしくはなかったはずだ。言い換えれば、少年が汽車に乗り込んだ時点で、いつエンドロールが流れても不思議ではない状況ができあがっていた。
映画の原作となったのが20ページ程度の絵本であるから、それを100分まで引き延ばすには新たなエピソードやハプニングを盛り込んでいくしかない。乗車チケットを紛失し、汽車が暴走するのを食い止め、孤独な少年の相手をする。ようやく北極に着いてみれば、3人(あるいは4人)の子供たちはわざわざ汽車の中へと戻り、ハプニングによってサンタとの出会いから遠ざかっていく。ロンリー・ボーイと呼ばれる少年が、ベルトコンベアーで運ばれていく自分宛のプレゼントに飛びつき自分ごと運ばれていくシーンでは、それは衝動的な行動というよりも、映画を更に引き延ばすための必然的な行動に見える。まるで、まだクライマックスを持ってくるには早いからと、誰かに背中を押されたかのように。
パフォーマンス・キャプチャ−という技法について、ゼメキスは次のように指摘している。この新しい技法が映画作りにとって革新的なのは、何よりカメラのあらゆる動きが可能になった点である。人間がカメラを構えていては絶対に不可能な角度からも簡単に撮影することができ、俳優の疲労や怪我を心配することなく何度も危険なシーンを撮り直すこともできる。確かに、チケットが飛んでいくシーンでは、カメラはどこまでもそれを追いかけ、まるでカメラが飛んでいるかのような滑らかな動きを見せている。しかし、どんなシーン、どんなショットでも可能だということは、逆に悩みの種にもなる。この構図でしか撮れないというような制約が一切無い状況で、何をしてもいいと無限の可能性を提示されたとき、そこからひとつのショットを選ぶのはあまりにも難しい。
何をしても許される、そんな空間が『ポーラー・エクスプレス』の中で提示されている。だからこそ、少年達はある特定の場所を与えられ、いくつかのルールを課される。そうしなければ、空間はどこまでも果てしなく続いてしまうからだ。100分という長さは、ゼメキスのこれまでの作品と比べるとかなり短い方だろう。しかし、『ポーラー・エクスプレス』は、汽車のスピードが映されているにも関わらず、間延びした退屈さが残ってしまう。(もちろん、この退屈さは映画の面白さについてのものではない。)
『キャスト・アウェイ』や『コンタクト』で見せたような、延々とつづく退屈さのあとにさらに付け加えられる物語の「その後」は、『ポーラー・エクスプレス』には描かれない。あまりにも果てしない広さ、そして膨大な時間の前で、ゼメキスは恐れをなしたのだろうか。子供向けの映画、という言い訳を利用して自ら制約を課したのだろうか。しかし残念なことに、『ポーラ−・エクスプレス』もまた、無限に続く風景から逃れることはできなかったようだ。もっと早くにサンタが登場していれば、私たちは主人公の少年、ヒーロー・ボーイの「その後」を見ることができたかもしれない。