『目覚めよと人魚は歌う』星野智幸
[ book ]
2000年に書かれた星野智幸の『目覚めよと人魚は歌う』が、11月文庫本として最刊行された。今回初めてこの作品を読んだのだが、2002年に刊行された舞城王太郎の『山ん中の獅見朋成雄』と実はとても似た作品であることに驚いた。
物語の構造が似ているわけではない。ただ、どちらの作品にも共通して現れるのが、「わたし」あるいは「自分」という概念だ。「わたし」探し、と言ってしまえばあまりに単純すぎるが、時間あるいは場所と「わたし」との戦い、たとえば<昨日あそこにいた「わたし」と今日ここにいる「わたし」は同一であるかどうか>という激しい問答が、とてもよく似た形で使用される。『目覚めよと人魚は歌う』では、日系ペルー人のヒヨが、ペルーにいた自分と川崎で事件を起こした自分、そして伊豆高原の家で隠とんする自分、それらすべての「わたし」を、言葉にすることでつなぎ合わせようとする。一方『山ん中の獅見朋成雄』の主人公は、人を殺し人肉を食すようになった自分と、かつての自分とを比べてみせ、「獅見朋成雄」から「成雄」へと名前を変えることによってとりあえずその変化に順応する。
日系ペルー人のヒヨは、恋人のあなとともに伊豆高原のある家に身を隠すことになる。その家には糖子とその息子の密生、丸越という中年男性が住んでいる。ヒヨは自分の過去を振り返るうちに、そこに住むすべての人々と対話し自己を投影しようとする。ある晩、5人が集合し入り乱れながらサルサを踊り始める。このワンシーンが、小説全体を象徴している。誰が誰だかわからなくなりながら、汗で身体が溶けそうになりながら、ただひたすらに踊る。けれどサルサは、5人全員で踊ることはできない。必ず、一対一という形でしか成立しない。
すべての解決作として、とりあえず逃げろ、という結論が下される。逃げるとはいっても、どこへ逃げるだとかどこから逃げるだとかが問題となるわけではない。ただ全力で逃げ続ける身体の運動が必要とされる。「わたし」を発見するには、あなとのセックスや糖子との身体の触れあい、密生との交流でもなく、言葉との戦いが必要となる。誰かとの対話、それは自分自身も含まれるが、とにかく対話をすることによって、「わたし」は形成されようとする。
どちらの作品でも、逃げるのは「わたし」ひとりではない。誰かとふたりで逃げなければいけない。他者が必要となるのだ。しかし、頑に他者の存在を必要とすればするほど、すべて「わたし」の分身であるように感じるのは気のせいだろうか。逆に、どこまでいっても「わたし」にしか出会えないから、絶対的な他者を求めてしまうのか。『目覚めよと人魚は歌う』では、意識的に他者の不在を示している。糖子の元夫である密夫の幻影が知らぬ間に密生へと変化するように、ヒヨが暴行を加えた男が、いつの間にか違う誰かと入れ替わっているように、誰かと誰かが簡単に入れ替わる構造が、初めから用意されているのだ。
星野智幸と舞城王太郎の作品がどれも似ているとは言えないが、少なくともこの二つの作品を見る限り、「わたし」は他者とは出会えない、という同じ問題を抱えていることがわかる。問題を解決することはできないにしても、それを回避するために、どちらの作品でも、形式が内容よりも優先される。目の前の人物が誰であるかという問いは保留され、目の前に誰かがいるという事実が、とりあえず選択される。そして他者はひとりでなければいけない。手を取り合って逃げるには、二人以上の人間は多すぎる。すべての登場人物が、入り乱れた末に「わたし」へと還元され、それを映す鏡として任意のひとりが相手役に選ばれる。『目覚めよと人魚は歌う』は、ヒヨという青年が相手役を選ぶまでの道程であり、同時に糖子という女性が相手を見つけるまでの物語でもある。ヒヨと糖子とが混同されるとき、語り手は「わたし」へと姿を変える。当然のことだが、言葉の中で人々を区別する手段は名前でしかないのだと、この小説を読んで改めて気づかされた。