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December 23, 2004

『グリーンデイル』ニール・ヤング

[ cinema , cinema ]

予告編が終わり、本編がはじめると低音の波が映画館に響き渡る。私たちの身体を含め、映画館全体がその音に振動する。この低音は私たちに単に映画を鑑賞することを許さないだろう。映画を見るのではなく、映画とともにあることを要求する。この低音は「グリーンデイル」への入り口である。

『グリーンデイル』には視線と視点がある。ニール・ヤング自身によって撮影された8ミリによる映像が持つ視線であり、もうひとつはテレビニュースが流す映像の持つ視点である。後者の映像が滑らかさを持ち、グリーン家の状況を説明するあたかも「客観」という名を持った見やすい映像であるならば、前者は映像の粒子も粗く、画面は荒れ、映像の貧しさを持っている。ここで重要なのはもちろん前者である。ニール・ヤング自身の眼で撮られた映像は、グリーンデイルの街の中を内側から見続ける。画面が荒れようが関係ない。きれいに見せることではなく、何を見せるかだ。それぞれの曲に入るとき、グリーンデイルの町の地図、そして舞台となる場所の絵が見せられるのだが、その絵が徐々に映像へと変わっていく。地図、絵から映像へ。一人の人間による内部からの視線を考える時に、このことを思い出してもいいだろう。
劇中、登場人物たちの台詞はニール・ヤングによる歌にあわせて口が動いている。きっと彼らはニール・ヤングであり、グリーンデイルの街自体がニール・ヤングであろう。だから、グリーンデイルにはいつもニール・ヤングの音が響いている。ジェド・グリーン=デビルのハーモニカがグリーンデイルの街に響き渡り、ニール・ヤングによる音が、声が響き渡る。そして、映画はニール・ヤングの頭の中で作られた「グリーンデイル」という街から、ニュースという外部の視点を導入しながらも、現実に存在する固有名詞「アラスカ」へと向かうようになる。「falling from above」のなかで見られるグランパとジェド・グリーンがポーチでゆり椅子に座って話をし、サン・グリーンがグランパにメガネを持ってくる。そんな場面からは遠いところに来てしまっている。

映画が終わりに近づくと、私たちは既に爆音での上映になれてしまっている自分たちに驚くことになるだろう。上映後、一般の映画館の音の小ささに文句を言ってしまうことはしょうがないことだ。いくら仲間内で言ったところでどうにかなるものではないのはわかっていながら、それでもやはり文句を言ってしまう。そのとき、爆音によって眼でも耳でもなく、身体自体が作り変えられてしまっていることに気づかざるを得ない。

渡辺進也

バウスで爆音公開中