西部謙司『Game of people アジアカップ ユーロ2004 超観戦記』
[ book , cinema ]
フットボールに関して面白い本を読んだ。W杯から2年後の昨年のフットボールは、この書物のタイトルにある2つのカップ戦が東京に住むぼくらの関心の中心だった。
湿気を伴った猛暑の重慶からマヌエル・デ・オリヴェイラの生地まで、私たちの眼差しはフットボールを追い続けた。東京にいる私たちはその眼差しを徹底して小さなモニターに置き、西部謙司は、重慶の蒸し暑さをポルトガルの乾燥を体験した。その差異はある。だが、この書物には、この類のレポートが常に持っている「現地に行かなくてはダメだぜ」といった意気込みは感じられない。むしろ、TVで私たちが見たものが、そのまま、てらいなく書かれている。時差の中で自室で見るゲームと現地のスタジアムの熱狂の中で見るゲームとの間に、この本を読む限り、あまり大きな差はない。なんとなく「まったり」しているのだ。まるでアッバス・キアロスタミの『そして人生は続く』のように、明日もまたゲームが続けられていく。現地へ行ったものでなければ理解し得ない何かがまったくないことに、読者である私はまったく失望しない。失望しないどころか、その「まったり」加減にはまりこんで、この書物を一気に通読してしまった。
アジアカップの日本代表は、別に新たなフットボールを標榜することなく、落ち着き払って優勝した。もちろんPK戦や延長戦を経験しながら、はらはらドキドキしたことはあったが、見た人ならこの感想を共有してもらえるはずだが、一向に負ける気がしなかった。西部の書くとおり、「本当に負けるまで負けていないし、本当に勝つまで勝っていない」ことを知った選手たちが逞しくゲームの時間を過ごしたからだろう。そして、ことフットボールと呼ばれるスポーツにあっては、「勝つ」ことは「正しい」のだ。ジーコは、そうして勝利を収め、批判を封じ込め、ギリシャは、他のチームが自滅していく中で、自らのはっきりした戦略を持って「何となく」優勝した。「そしてゲームは続く」のだ。胸が張り裂けそうな緊張感は、もちろんあったろうが、それは何度も繰り返されるのだ。緊張感が日常になり、修羅場は毎日になり、そして、緊張に慣れ、修羅場に慣れ、それぞれの力がごく自然に発揮されるようになる。私たちもまた、昨日と同じようなゲームが反復するのを知りながら、テレビにかじりついて選手やコーチたちと共に、そして多くの観客やテレビの前に座る信じがたい数の人々と共に、一喜一憂──これにも慣れる──しながら、膨大な時間をフットボールと共に過ごすことになる。