『巴里の恋愛協奏曲』アラン・レネ
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アホな邦題は呆れるだけだ──原題がPas sur la boucheだから『唇はダメよ』ぐらいにしておけばいいだろう──が、やはり、この手のフィルムは、日本で興行的なヒットは望めないのか? 戦前のオペレッタで大ヒットしたが、今では忘れられた作品を、映画によって再現する試み──『メロ』以来アラン・レネは、そうした実験を繰り返している。『ゲルニカ』、『ゴッホ』といった初期の短編の実験、そしてその集大成である『夜と霧』、さらに『ヒロシマ』……。それらの作品と『メロ』以降のレネの作品は、明瞭に一線を画しているように見える。だが、映画の話法的な実験を洗練させていくと、その最小単位である俳優たちの演技の実験へと眼差しが移っていくのは自然な行程なのだ。サビーヌ・アゼマを公私ともにパートナーとしてからのレネは、一作ごとに演技の実験を洗練させ、それが実験に見えなくなるまで精度を高めていく。その対象としてブールヴァール演劇、あるいはオペレッタというのは最適なものだ。物語は類型的で、その外部に出ることはなく、多様な約束事の中でだけ創造性が発揮されるジャンル、それこそ、たとえばアンリ・ベルンシュタインのブールヴァール演劇──『メロ』──であり、モーリス。イヴァンのオペレッタ(この作品)だ。まったく内容がない。馬鹿げている。下らない。だが、それらは蔑視ではない。そのふたつのジャンルに関しては完全な称賛なのである。よくもまあこんな話を考えたものだ。よくもまあこれほど駄洒落だけの歌詞を考えついたものだ。すべては表層に留まり、意味作用の海を下降することがない。作品の構造を、それを見る人は、見る前から知っている。作品の内容に驚くことはない。どのようにオチがつくのか、どのように演じるのか──それもまた作品に関わる表層だ──にしか興味がない。演技は自然主義的なものと対極にあり、演じていることを観客に見せねばならない。だから、そこにはもろに俳優たちの技巧が露呈する。名人でなければ、演技を演技として成立させることは不可能なのだ。その意味で、すべての出演者が巧みだった『メロ』に比べると、この作品はやや劣るかもしれない。何しろフランスでも名人芸を見せられる俳優は減っている。志村けんのようなダリー・コールは本当に名人だが……。
そして、表層を滑走するような運動ではなく、深化する意味作用を常に追い求める観客にとって、こうした作品ほど難解なものはないのだ。猿がラッキョウの皮を剥くように、核心を求めてもそこにはなにもない。レネの目的は、すべるような運動感を俳優の演技と音楽に載せて提出することだから、それもまた観客の期待の方向とは「ねじれの位置」になっている。だが、この作品をワインにたとえれば、その芳醇さはかなりなものであり、この作品を前にすれば『8人の女』などボージョレー・ヌーヴォーのような安ワインに過ぎない。