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January 30, 2005

『行ったり来たり』ジョアン・セザール・モンテイロ

[ cinema , cinema ]

当たり前のことと言えば当たり前なのだが、どこかを見ることを決めたときに、同時にその背後を見ることは誰にとっても不可能になる。それは映画においても同様であり、一つのショットを選択するとき、それは可能性のあるはずの他のショットを選ばない、ということになる。「見る」こととはつまり倫理の問題であることを、私は『不屈の精神』(セルジュ・ダネー)から学んだ。
ロベール・ブレッソンの『スリ』のポスターを玄関口に掲げた、モンテイロ自身が演じる老人の家は決して広いとは言えないものの、部屋を捉えるショットの位置が厳格に固定されているがために、ある視点からは決して見ることの出来ない場所が、実際に見えている場所との距離を想像以上に増幅している。フィルムの序盤でモンテイロが音楽を聴きながらカーペットを掃除するシーンが反復される。一度目はカメラをモンテイロに向けて、二度目はその正面のソファーに横たわる女性に向けて。同じ時間で見ることが不可能なはずの二つのショットの可能性をこの目で確かめる。
リスボンを出歩くモンテイロはバスに乗り、公園に向かい、見知らぬ人々や少しの知り合いとの取り留めのない時間を味わう。いつの間にか途中下車し、あるいは通り過ぎてしまうだろう人々や風景を惜しむかのように眺める姿が淡々と時を重ねていく。フィルムの後半では、少女が自転車でモンテイロの座るベンチを何度も左から右へ横切るシーンがワンショットで撮られる。彼女はそのとき明らかにカメラの背後に回りこみ、再び左側から現われる。少女は「見られる」ことと「見られない」ことという境界そのものを彷徨うように移動を続ける。その様子を眺めるモンテイロは、やがてその少女に導かれるように全く同じ移動を試みる。カメラの背後を通り抜け、再びカメラの目の前に帰ってくるモンテイロはなぜか一度きりでその動きを止め、再び戻ってくる少女におののくように両手を上げる。

入院したモンテイロが、医師の判断を押し切り退院を強行する時、一人の看護婦は妻も子も諸所の理由で失ったモンテイロの孤独な人生について否定的な態度を露にする。それでもモンテイロは、病院で横たわりながら生きるよりは、街に出て太陽の下で死ぬことを選ぶのだと告げ、その通りに再び公園に回帰する。そして、またバスに乗り込み、公園を徘徊し、見知らぬ人々と歓談を交わし、そして別れることを選択する。
このフィルムは、病院から抜け出したモンテイロがベンチの前の木に登っている女性に「降りてこないか」と聞く一連のシークエンスから、誰も登っていない木を再び映し、モンテイロの瞳へのクローズアップで終わる。果たしてモンテイロの隣にその女性がいたのかは定かではないが、深い皺の刻まれた皮膚に囲まれた眼球には、モンテイロの視線の先の風景が映りこんでいる。おそらく、モンテイロはそれからもその眼に映りこみ、そして逃げ去っていく風景を眺めていくことを決断していたのだろう。それがどんなに哀しいことであろうとも、おそらくその視線を継続することだけが映画作家として生きることなのであり、映画を撮るための孤独な倫理の一つであるはずだからだ。
ジョアン・セザール・モンテイロは2003年2月3日に亡くなっている。その殆どは日本で公開されていないこの映画作家の文字通りの遺作には、ユーモラスでありながらもその自らの死の予感が濃厚に漂っている。しかし、このフィルムは同時に彼自身のまなざしの誠実さそのものを焼き付けたフィルムである。そして、その誠実さこそが映画にとっての「感動」という言葉に結びつく一つの姿勢であるべきなのだ。

田中竜輔