『レイクサイド マーダーケース』青山真治
[ book , cinema ]
受験勉強の合宿のために用意された、湖畔の近くの別荘が映画の舞台である。撮影のためにだけ建てられたという二階立ての別荘は、その外観がはっきりと画面におさめられ、その度に、この建物の外側と内側が本当に繋がっているのかという疑いが生まれる。室内のシーンをわざわざセットにするわけはないし、外へと繋がるテラスも確かにそこにある。繋がりが見えないのは、外と中というよりも室内の一階と二階の方かもしれない。
建物の一階には広いリビングがあり、上の階には役所広司と薬師丸ひろ子夫婦の寝室がある。二階に何部屋あるのかは公開されないので、残りの二組の夫婦の部屋がどこにあるのかを判断することはできない。リビングでは彼らは誰と誰が夫婦なのかわからなくなるほど入り乱れ、一個の大きな家族をつくっているが、この巨大な家族がそれぞれ本物の夫婦に戻る過程がすっぽりと抜け落ちている。唯一その寝室を公開しているのは役所・薬師丸夫婦でさえ、リビングと彼らの寝室とは別の建物であるかのように断絶した状態だ。そして彼らの別荘と、子供たちが寝泊まりする貸別荘との通路もまた隠されている。夫婦の和解は部屋の中ではなくリビングのソファの上で起こる。最後まで、彼らがこのリビングから部屋へと帰っていくシーンは映されない。子供たちが何をしたのかを理解することができないのは、家の外の存在を無視しているからだ。森の中や湖へと続く道路は、ただ交通のためにあるわけではない。
死体を家の中へと運ぶように、家の中へ持ち込むことですべてを見ることができる、あるいはすべてを見ないことにできると彼らは信じているのだろうか。見えないものはどこにでもある。ロバート・ゼメキスの『ホワット・ライズ・ビニーズ』で、湖に沈む死体が家の中へと侵入しつつあったように、死体はあらゆる場所に潜んでいる。カメラが死体に近付くのではない、死体がカメラを近付けるのだから。
醜さを受け入れろ。柄本明は役所広司にそう要求する。そうすることでしか親にはなれないのだからと。親であると自負する者たちの中で、役所広司は親であることよりも親になろうと務めることを選択する。醜さは、受け入れることはできても隠ぺいすることはできない。「本当になかったことにできるのか?」という役所広司の叫び声が消えたとき、『レイクサイド マーダーケース』という映画もまた、醜さを受け入れることを決意する。