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February 12, 2005

1st Cut 2004 A・Bプログラム
田村博昭・三橋 輝・衣笠真二郎

[ cinema ]

澁田美由貴『あわぶくたった』(Aプログラム/フィクション)

たぶん、誰でも感じたことがあるはずだ。それは、視力矯正のために眼鏡をかけていて、ある時コンタクトレンズに変えてみようかと思い立って眼科へ行き、それを試着するまさにその寸前の瞬間に感じるものだ。また、その本人でなくとも指先に薄いゼリーのようなガラスのようなそれを載せて、見開いた眼球に近づけ、装着するところを目撃した人なら必ず感じるはずだ。ある肉体的感覚。生理的嫌悪感とでも言える感覚。身体に異物を装着させるというのはピアスなどのアクセサリーを例にとれば全く違和感のないもののように思えるが、それでも初めてピアスの孔をあけて、眼前でつけているところを見ると「痛そう」だと感じるものだ。だが、こうした感覚は自分がいま「世界」のどこにいるのかということ、自らに輪郭を与えることの端緒となる。とは言うものの、当然のようにこの感覚=違和感は時と共に慣れてしまえば自然と消失していってしまう……。

主人公の幸は、コンタクトを使用しているくらいだからもちろん視力は良くなく、裸眼ではほとんどピントのズレたぼやけた映像しか見えないだろう。だが、どうやら幸はコンタクトを使用しているにも関わらず、それは度があっていない為に、矯正していてもその映像は、全てがクリアに見えているわけではなくどこかぼやけたものとなってしまっているようだ。つまり、結局、どちらにしても幸の世界はぼやけている。そんなぼやけた世界であるから、夢と現実の境界は明確にされることはなく、どこからともなく子供たちが歌う「あわぶくたった」が聞こえてくる。もちろん幸にはそれは大した問題ではない。ぼやけた世界ではそれがどこから発せられたなどという正確な場所など彼女と関係がないからだ。祖母のお願いを聞き、犬の骨を調達してくる。病床の兄の世話を何も言わずに続ける。このような行動をただただ続ける彼女は一見、このズレた世界を受け入れているかのように見える。さらに、不在であった父の帰宅。これはなんとなしの日常への異物以外の何物でもないだろう。しかし、何も見ていない幸の視線の中での世界=映像は何も変わらない。そして縁側での幸と父の会話のシーンでは、二人は画面のほぼ両端に位置し、正面を向いたままフィックスで捉えられる。濃紺のTシャツを着た幸の側の襖は大きく開けられ、その背後には部屋が大きな暗闇としてあるので、幸の姿はその暗闇に吸収されてはっきりしない。対する父は襖を自分の背中ほどしか開けないのだが、Tシャツが白いために障子と同化してまたもや輪郭がはっきりしない。彼らはぼんやりした世界に居続ける……。このようなボケた映像をそのままにしておく幸の世界は、そのズレを受け入れているようで実は何物にも向き合ってはいないのだ。ただなんとなく焦点のあわないぼやけた世界を、どこをみるともなく、何かを見ようとすることもなく視野の確定しないぼんやりしたものとして放っておく。彼女はぼやけた世界であることに肯定も否定も、受容も拒絶もしないのだ。

ラストで幸は「見えすぎる」と呟く。しかし「見えすぎる」ようになったところで彼女は少しも変わらないだろう。ぼやけていたものに輪郭が与えられたところで、世界はその昔から何も変わっていないのだ。幸はその「見えすぎる」ようになった視力でもって、以前と変わらないその世界にいまこそ向き合わなくてはならないだろう。向き合えれば、ぼやけた世界であっても見ているものがなんであるかの「判断」は下すことが可能になるのだから。家の中から縁側、または庭にいる幸を捉えたショットにはその殆んどに庭の藤棚が写りこんでいた。夏の爽やかな風と適度に強い日差しの中での薄い紫とブルーのあのゆらめきは、どこかぼやけたこの世界の中で、ゆれるその姿それだけで、その輪郭をはっきりとさせていた。

三橋 輝


別府由美子『五尺三寸』(Aプログラム/フィクション)

3人の少年たちには、それぞれがかかえる家庭の問題がある。勝造の母親は浮気相手を平然と家に連れ込むような人だし、直人の父親は暴力をふるって息子の身体中をアザだらけにさせる。パインというあだ名で呼ばれる少年の家は一見裕福で幸せそうだが、もしかするとなにかが原因で父親が不在になってしまったようにも見える。だから少年たちは自分たちだけの住処──廃車置き場にある中型バス──を見つけて、そこを避難小屋のようにして使っている。ここを出入りする彼らの身振りや表情からわかるのは、それぞれがかかえている問題がきわめて絶望的ではありながら、しかし、彼らは深い苦悩に強いられているわけではないということだ。少年たちは現在の境遇に悩んでいるようにも見えないし、あきらめているようにも見えない。どこまでも淡々と彼らはすごしているのだ。あるいは、少年たちの行動はすべて遊びであるようにも見える。しかもその遊び方がとても真面目だ。ぷかぷかシンナーを吸うのも、浮浪者を殴りつけるのも、遊びの度を超さないように黙々とやる。彼らの悪さやいたずらは「不良少年」のルールに従順なのだ。だがいつか少年たちが遊びのルールを逸脱することを、なんとはなしに知らせていたのはパインであった。3人が学校の帰り道に傘を差しながらジャンケンをして、「グリコ」「チョコレイト」「パイナップル」と歩を進めていた。そのときパインはズルをして、ジャンケンで勝ってもいないのに自分のあだ名を連呼しながら駆けだしたのだ。しかしそのパインが意味もなく唐突に死んでしまう。彼らはもういっしょに遊べなくなる。勝造はパインの弔いにと花火を上げ、住処のバスを焼き払い、遊び場を放棄する。そこにはいまだ儀式的な真面目さがただよってはいるが、ここに大きな期待が生まれる。彼は家族も住処も捨てて、あとには身体ひとつしか残っていないのだから。もしもう一度遊びを選ぶとしても、そのときルールから逸脱した何かが彼を襲うだろう。映画のラストシーンで勝造は亡き友の故郷を訪れ、そこにひろがるパイナップル畑で友の名を呟きながら歩を進めていく。少年はただひとり歩いていくことを選んだのだ。その歩みはもう遊びではないことは確かだ。だが、彼の足取りはまだまだか弱く繊細すぎる。どこかおそるおそる一歩また一歩と足を踏みしめているのだ。青々と茂ったパイナップルの葉で足元が見えないためだろうか。あの帰り道でパインが走り出したときの野蛮さ、言葉とステップを一致させることなどひとつも気にしなかったあの野蛮さを、遊びの外で勇気を持って引き継ぐこと。おそらくそのレッスンが勝造には始まったばかりなのだ。

衣笠真二郎


金鋼浩『三人打ち』(Bプログラム/フィクション)

何かが欠けていることが即ち、失敗や不可能であるとは限らない。むしろ、その欠けているところへ、手近な有り合わせで都合をつけてしまう方が全てを狂わせることも大いにあり得る。挑戦と、賭けに臨む姿勢となるのは欠けたものをそのままにしておくことだ。

面子の一人足りない麻雀は「三人打ち」と呼ばれ、主人公・ヨンスの状況を炙り出している。母と離婚し今は別々に暮らす父と、怠惰に生活しながらその父と度々会っている弟・ソンホ、そして兄であるヨンス。たとえ一堂に会すことはなくとも三人は互いの影を意識しながら生きる、まさに「三人打ち」の真っ最中なのだろう。

「もう一人」の欠落は、母であったり、在日であることによる日本人への意識であったり、様々なもので補填が出来るかもしれない。だがこのフィルム自身は、「欠落に向き合わなくてはいけないこと、欠落を埋めることなく勝負しなくてはならないこと」を分かっていたはずだ。実際、主人公の叔父・五島は「三人打ちはな、逃げ回ってたらあかんで」とヨンスに忠告する。しかしながら、まるで沈黙を恐れる若者のようにこのフィルムは欠落を埋めようとしてしまう。叔父の五島、同僚の磯村とヨンスが三人打ちをしている場面は四人目の位置にカメラが置かれることになり四人目の空席は提示されることもない。また、父の元へ向かうソンホやヨンスが通る住宅街のカットでは、夕焼けの赤と日暮れの影によって美しく彩られ、余りに叙情的なカットが父の元へと続く道を映し出してしまう。そしてラストシーンでは二人の兄弟は嗚咽を漏らすことになるのだが、それによって登場人物たちのあらゆる弱さや辛さがフィルムに充たされる。

空席が埋まることはなく、もしもそこへ誰かがやって来たなら新しいゲームが始まるのであり、「三人打ち」ではなくなるだけだ。だから四人目が現れることを期待してはいけないし、期待を失望に変え嘆いている様をフィルムに焼き付けても仕方がないのではないか。今、敢えて、家族へと、また自分の欠けている何かにカメラを向けるのなら、欠けてしまったものをそのままに挑むべきであり、欠落への辛苦を涙で補うべきではなかった。ヨンスの害虫駆除作業の場面やソンホが父と過ごす姿は寡黙でありながらも、湧き上がる害虫のように欠落を埋めようとするものと対峙している彼等を捉えていたのだから、この作品自身も欠落に抗うことが可能だっただろう。

田村博昭


村山圭吾『モリムラ』(Bプログラム/フィクション)

森村家の表札にはその下に小さな紙が張ってあり、書かれているのは母親の現在の(旧)姓である。つまり母親は父親と離婚しているのにもかかわらず家を出ることなく、平然とそのまま森村家で暮らし続けているのである。その理由は、次男の稼ぎ(ネット上での株取引)をアテにしているからであり、何年も部屋に引きこもったままの息子を十分にケアすることが母親にとっての関心事である。息子に依存しているのは父親も同じで、いまは職もなく家でのうのうと過ごしている。そしてフリーターの長男への仕送りは、もちろん次男の収入から工面されている。引きこもりの次男に寄生している森村家の人々による「コメディー」がこの映画である。彼らにおいては寄生することが第一目的であるため、家族同士のことがらにはそれほど関心がしめされない。家庭内での次男とのコミュニケーション手段が糸電話だけであったように、家族の関係性はとても希薄でバカげたものだ。病的なほどたくさんの観葉植物でダイニングルームが埋め尽くされていたのも、この家族は「地面に根が張っていない」からだろう。森村家の人々のただただ滑稽なやり取りによって次第に明らかになるのは、この家族がこの家屋のみによって繋ぎとめられていることだ。この家族は「森村家」という関係によってではなく、「モリムラ」という空間によって固定され把握されているのである。だから、森村家の寄生虫たちが、次男を喰い殺し、父母を喰い殺し、とうとう家族自体を食い殺してしまっても、「モリムラ」は変わることなく存続する。長男による父母の撲殺後、「モリムラ」の空間からは害虫が駆除されていっそう均質な空間が拡がったように見える。だがしかし、この映画でもう少し見つめていたかったのは、森村家のバカげた滑稽さであったと思う。あの糸電話の糸の細さや、表札の下に貼られた紙の貧相さ、そして何よりあの寄生虫たちの醜さをさらに倍加した何か。それが暴走をきわめて家屋そのものを喰いはじめ、彼らを保護していた「モリムラ」空間をぶちこわし、その瓦礫で自壊してしまってもいいではないか。そのときもっとも「笑えない」事態が起こるはずではないだろうか。

衣笠真二郎