『空のオルゴール』中島らも
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あの時のことはよく覚えている。2004年夏、私は三泊四日で北アルプスに挑んでいた。携帯電話の電波も入らず、世間から隔絶された数日間の後、下山して友人と連絡をとる。「何か事件でも起こったかい」という私の問に、友人はしばらく考えた後、答えた。
「…ああそうだ、中島らもが死んだよ」
私は背筋が凍るような衝撃を覚えた。そしてこれから先、自分が尊敬する人が自分より先に次々と幾人も死んでいくのかと思うと、嫌な気分になった。それから数ヵ月後、ついニ三日前のこと、私は本屋で「中島らも」の文字を見つけた。『空のオルゴール』、文庫になったばかりのその本を迷わず購入し、一気に読んだ。
「近代奇術の父、ロベール・ウーダンについて調べてこい」という教授の指令を受けてパリを訪れる大学院生のトキトモ。彼が出会った高名な奇術師が惨殺されるという事件を発端として、トキトモは、殺された奇術師の弟子たちと、「反奇術師同盟」を名乗るキリスト教ファンダメンタリストの殺人集団との殺し合いに巻き込まれていく。殺伐とした雰囲気の一切ない、愉快で呑気でわくわくするような、いい意味でメリハリのない活劇である。
小説にしろエッセイにしろ、中島らもはよく「奇術」や「呪術」といったテーマを選択する、もしくは匂わせる。彼の著作にあって、それらは単にオカルティズムや中年サラリーマンの忘年会でのネタ、一過性のブームなどではなく、私たち人間の感覚が持つ一つの可能性として示される。私たち自身の中にあり、また私たちの間にうねり波打つ感覚が自由に紡ぐ連想、その作用が引き起こす「何か」を捉えようとする姿勢が、中島らもの文章には常に見え隠れする。たとえばかつて彼が恋愛について語る際に引用していた「詩は歴史性に対して垂直に立つ」という稲垣足穂の言葉を借りて、その「何か」を、「記憶に対して垂直に立つ感動」と言い表すことにしよう。
奇術とは、父子相伝、師から弟子へと受け継がれていくもの、しかしその過程でもっとも重要なのはオリジナリティだと『空のオルゴール』に登場する奇術師は語る。「ちょっとした演出で全てが新しく見えたりする。それがマジックの世界なのです」。人から人へ何かが伝わっていく時、感覚と感覚とがぶつかり合う時、何らかの変容、大小の「ずれ」が生じる。その作用はしばしば、世界の全てを新しく見せる。水平にべったり延びていく記憶の流れを垂直に断ち切って現出する感動の瞬間である。一瞬の永遠を実感する瞬間、と言い換えてもよいかもしれない。奇術。人はそれを錯覚だとか子供だましだとか言うかもしれない。結局は現実ではないと。そうではない。それは、私たちがあまりに見慣れてしまった世界の光景を、ほんの少しだけでもずらそうとする、非常に困難だが素敵な試みなのである。
作家としての中島らもは、まさに奇術的ともいえる手法で、自身の文章中に「記憶に対して垂直に立つ感動」=「ずれ」を鮮やかに散りばめ続けてきた。いくつかの文字の連なりが人を感動させてしまう、私は彼の本を読むたび、そのことに驚く。『空のオルゴール』は、往年の彼の傑作『ガダラの豚』や『今夜すべてのバーで』ほどには私を魅了しなかった。しかしこの作品において「ずれ」は、ひとつ徹底した軽さとして現れている。パリの街に展開する殺し合いの上を跳躍し、「ずれ」としての軽さはいくつもの新たな「ずれ」を呼ぶ。物語だけがずれていくのではない。読者としての私自身の感覚が軽やかにずらされ続けるのである。私は「ずれ」を追いかけ追いかけしているうちにいつの間にかこの作品の虜になってしまう。おかげで読み終えた本から顔をあげると、いつの間にか朝だ。
「この作品そのものが中島らもの奇術なのである」
ぼんやり日の光を浴びながら、私は町田康の解説にひとりうなずくのであった。