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February 19, 2005

『トニー滝谷』市川準

[ cinema , sports ]

小説を映画にする。これは実にオーソドックスなものだ。だが、少なくともこの日本において村上春樹の小説を映画にするといった際、そこにはどうしても厄介なものが存在するだろう。彼の小説独特のフラットで無機質で色素の薄いクリーンな世界。登場人物たちも一様にクリーンだ。この世界を映像として表現するにはどうすべきか? 市川準の選択は実に明快だ。写真家の広川泰士を撮影監督とする。よってキャメラはほとんど動かない。フィックスで低めの角度から常に引いた位置に置く。全体的に薄いグレーがかった色合いの映像で、現実感(生活感)を排除するために一見普通なのだがよく見ると奇妙な家(窓にガラスが嵌めていないコンクリート打ちっぱなしで吹きさらし)を舞台とする。孤独な生い立ちで機械の絵しか描くことの出来ないイラストレーターのトニー滝谷と狂ったように洋服を買い求める「洋服を着るために生まれてきたような」小沼栄子は小説そのままの人物として描かれる。イッセー尾形と宮沢りえ以外の人物は顔をほとんど映さず何かを話している声も余りよく聞こえない。あくまで彼らは小説のなかでの登場人物であり続け、だから基本的に主人公の物語だからそれを邪魔することないように舞台装置のように存在し、そしてその物語は西島秀俊のナレーションで小説の地の文さながら進んでいく。時折、イッセー尾形と宮沢りえがそのナレーションにインサートしてくるがそれは非常に小さな逸脱にしかならない。むしろそれはナレーションが地の文である、ということを強調するアクセントとして機能する。背後では坂本龍一の抑制の効いた緩やかな切ないメロディーが絶えず流れ続ける。字の如く淡々と物語は進行しイッセー尾形の孤独さや悲しみも、この世界に沿うように淡淡と表現される。初めて愛した女性を失った悲しみですら。つまり、この映画はあくまで村上春樹の小説をまさにその世界観そのまま映像として表現することを目指し、そしてそれに成功している。彼の小説を読んだことがあり、その世界観に一度でも触れたことがある人ならば殆んど納得するのではないだろうか。これは紛れもなく「ハルキ」だ、と。
映画のラストで宮沢りえは自宅のアパートの大家から手袋をもらってくれないかと持ちかけられる。黄色と紫どちらがいいか。「どっちでもいいですよ。」彼女は別に手袋など欲していないのだ。それよりも自室から聞こえるらしい電話の呼び出し音のほうが気になってしょうがない。何度かの気の向かないやり取りの最後に彼女は軽やかに言い放つ。「うーん。どっちでもいいです。もらわなくたっていいくらいです!」そして電話が鳴る自室へと階段を駆け上がっていく。そして電話を切るイッセー尾形の表情が現れ、ここで映画は終わる。彼女は電話に出たのだろうか。それとも間に合わなかったのだろうか。どちらにせよ彼の表情からは彼女とはまだ話していないだろうということがはっきり読み取れる。この時、彼はまだ孤独だ。だが、最後の「もらわなくたっていいくらいです!」という今までのこの映画の薄い色調に余りに似つかわしくない、はっきりとした、だが澄んだ色合いのその声は彼がこの孤独な世界から抜け出る唯一の手段となる。宮沢りえから偶然のように発せられたその声は不意打ちのように画面に響く。その声によって今まではクリーンな世界の悲しみであった「悲しみ」が突然その姿を変えていく。定型に嵌められるものではなくそこから脱け出そうとする意志をもったもの──「感情」と呼ばれるもの──へと変化していく。その時、この作品は間違いなく「村上春樹」の「小説」ではなく「市川準」の「映画」となる。

三橋輝