『Mauvais génie』(『汚れた天才』)
マリアンヌ・ドゥニクール、ジュディス・ペリニョン
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アルノー・デプレシャンの新作『Rois et reine』(『王たちと王女』)公開と同じくして、女優マリアンヌ・ドゥニクールの小説が話題を呼んでいた。かつてのデプレシャンのフィルム──『二十歳の死』『そして僕は恋をする』──に欠かせなかったこの女優。自身この書物のなかで明らかにしているが、私生活においてもドゥニクールは、かつて、デプレシャンと時間を共にした。
『汚れた天才』とはいかなる書物なのか。その出自はこうだ。自らの過去を蹂躙し、利用した物語を持つ『王たちと王女』への返答だと。父の死、子供の父親の死、明らかに彼女の子供を思わせる人物像……。その他多くの要素がドゥニクールと彼女の周囲に実際に起こったことであり(フィルムにはさらに悲惨な要素が加えられている)、ドゥニクールにはそれが許せなかったという。かつて彼女はそうしたすべてをデプレシャンに打ち明けた。そしていま、彼はドゥニクールの「人生を盗んだ」。これが書物の出発点だ。
当然インタヴューでも怒りを隠さないドゥニクール。彼女の態度と作品に嫌悪を示す者もあれば、十分に同調する者もある。芸術作品と私生活との100年以上にも渡る問題も人々を賑わしている。だがそうした喧噪とは別の場所で、少なくとも私には、この書物は凛々しさと輝きを持つように思われる。
「アルノルド・デュプロンシェ」なるシネアストの日常生活−それはクリエイションの時間と同義だ−が三人称の視点から描かれる。「アルノルド」はリュクサンブール公園のランニングを日課としている。精神科医に7年通い続けている。「マリアンヌ」の他にも多くの友人の「人生を盗み」、フィルムのなかで踏みにじってきた。ときにはそのひとりからパンチを喰らい、目を紫色に腫らしている。彼が持つ多様なレフェランス−映画、小説、絵画etc−と「人生を盗むためのリスト」に連なる名前の数は、同じ曲線で日々増えつづけている。あらゆる物事に毒づき、人生の豊かさを知らず、おどおどした子供のように、わがままな子供のように。「アルノルド」はピエロのように描かれ、たしかにこんな友人はいらないと、われわれに思わせてくれる。その意味で「マリアンヌ」の「復讐」は成功なのだろう。
だがこのフィクション−あくまでフィクションである−は、ふたつの点で美しい小品となっている。ひとつ。ひとりの男の振る舞いを丁寧に描くこと。滑稽さを纏わせるための描写は、同時に、この男の細部と輪郭を引き締めている。ドゥニクールは「あなたを非難する」に「te tailler un costard」という表現を使う。直訳すれば「スーツを仕立ててやる」だ。彼女はそうして布を当て、裁断し、少しきつめのスーツで男の曲線を浮き立たせる。
そして『汚れた天才』は、復讐とは別の場所で、『王たちと王女』への素晴らしい批評である。これがふたつめだ。「他者の人生とその幻影をどのように使うのか。それがクリエイションにおける重要な問題だ」。書物のなかで「マチアス」という俳優から「マリアンヌ」へと発せられるこの言葉が『王たちと王女』−そこでは養子という関係性が扱われている−と、そして『汚れた天才』の大きなテーマである。もちろん、そのどちらにも対する批評となる。
他者の人生とその幻影をどのように使うのか。他者とは人間に限らない。さまざまな芸術作品もまた他者である。だからこそそれはクリエイション−批評行為と言い換えてもよい−の問題なのだ。クリエイションは、人生とその幻影になりうるのだろうか。人生とその幻影は、クリエイションになりうるだろうか。
ひとつの書物がひとつのフィルムに布を当て、裁断し、bigger than lifeの縦糸で細身のスーツを仕立ててやる。逆もまた然り。そのとき現れる輪郭は、諍いや非難や、断罪やら賞賛とは、まったく異なる。批評がクリエイションとなり、人生とその幻影になるのは、そこにおいてだ。『汚れた天才』は「アルノルド」に当てられた「マリアンヌ」の手紙で終わる。『王たちと王女』は主人公の女性「ノラ」からわれわれに当てられたナレーションで終わっていた。