第77回アカデミー賞授賞式(2/27)
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遅ればせながら、アカデミー賞授賞式のテレビ中継を録画したビデオで鑑賞。すでに受賞結果を知りながら、わざわざビデオを借り受けてまで見るのは、ミーハー根性ゆえだろうか。昔からアカデミー賞授賞式を見るのが好きだった。単純に受賞者が名前を呼ばれる瞬間の顔を見るのが好きだ。例えば、去年だと、ブレイク・エドワーズの登場からスピーチまでの一連のシーンを見るためだけに、数時間ブラウン管を見続けていたようなものだ。
アカデミー賞の特徴は、選考者が大勢いるはずであり、しかもその顔が見えないことだと思っている。映画祭では、その年の審査委員、特に審査委員長が誰かということを前提に賞レースを眺めてしまうが、アカデミー賞を見るときはそういった前提を差し挟む余地がない。一方で、アカデミー賞はこれから公開される映画ではなく、すでに公開された映画に与えられるものだ。つまり、短期間に見る新作が選考対象となる映画祭に比べて、その授賞には作品自体の良し悪し以外の何かしらが影響を及ぼしていると考えられる。その何かが興行収入だけではないことは明白だ。アカデミー賞には、何某かの「傾向」というものが依然として存在している。アメリカ映画の「傾向」ではないある種の「傾向」が。
今更言うまでもないことだが、1993年、イーストウッドが『許されざる者』によって作品賞と監督賞を手にしたことが、いまなお象徴的な出来事として記憶されるのは、その「傾向」の外で「アメリカ映画」を撮ってきた監督の受賞であったからに他ならない。少なくとも、あの時点でアカデミー賞の傾向とアメリカ映画の傾向はまったく別物であることが疑いなきこととなった。
あれから12年、再びイーストウッドがアカデミー賞の主役となっても、もはや誰も驚きはしない。『許されざる者』でジーン・ハックマンにその座を譲ったモーガン・フリーマンが、助演男優賞を受賞することも予測を超えるものではない。私たちの予測を超えることといえば、イーストウッドが主演男優賞を獲ってしまうことぐらいだが、そんなことが起こるはずがないのもわかっている。つまり私たちが驚くことは何もないはずだった。
しかし、そうではなかった。第77回アカデミー賞はきっと私の記憶に残り続ける。いまや唯一「ハリウッド」を体現しうる女優であるジュリア・ロバーツのキスによって。そして、12年前と変わらず息子に拍手を送るイーストウッドの母親によって。イーストウッドを祝福するそのふたりの女性によって、私たちは一瞬にして(アメリカ)映画が辿った12年間に思いを馳せ、途端に見失う。私たちはまだまだアメリカ映画を見続けなければならない。