『きみに読む物語』ニック・カサヴェテス結城秀勇
[ cinema , sports ]
この映画のストーリーにはふたつの大きな筋がある。ひとつは、愛し合ってはいるものの、身分の差や社会的状況が一緒になることを許さないふたりの若い男女の物語。そして、もうひとつが、実際に過去にあったその物語を現実の出来事として共有することが出来るか、という老いた男女の物語である。前者では身分や階級の差が男と女の間に断絶として横たわるし、後者では記憶の差が男と女の間に横たわる。しかしこの映画自体が、このふたつの断絶以上のひとつの大きな断絶を孕んでいて、しかもそれに対して積極的な解決を与えないままなしくずしに出来上がってしまっているという気がしてならない。
その断絶とは、この映画の中心的な舞台となる川辺の一軒の家にある。冒頭、大きな河をゆく小さな小舟の映像がシネマスコープで映し出される。飛び立つ白鳥のスローモーションが挿入され、ゆっくりと漕がれる小舟の映像を見れば明らかなように、広大な自然として時間的にも空間的も無限の広がりを持つような、そんな普遍の存在として河はある。対してそのすぐそばにある家は、何度かの再生を繰り返す人工的な存在である。はじめは南部の過去、土地の歴史を引きずる廃墟として登場するそれは、途中で主人公の手によって、夢の生活を送るための新居という新たな意味と価値を付け足される。彼の手によって、白い壁と三階のポーチを持ち上げるための2本の巨大な柱を持ったその家は、彼の夢や約束そのものであると同時に、夢や約束を実現するための手段でもある。実際その夢や約束はかなえられることになるが、そこは決して描かれず、この屋敷の姿は第3段階へと移行する。そこでは、この病院は夢の廃墟としての病院となる。
この屋敷とこの屋敷に価値を与える巨大な河とは決して同じフレームに収まることがない。ふたりの若い男女が再会を果たすきっかけとなるのは新聞に載った一枚の写真である。そこでは正方形に近いフレームの中、白い美しい屋敷の前に立つひげ面の男の顔が映されている。その写真を見て、女は男を訪ねる決心をするのだが、ふたりの夢としての屋敷はただその一度だけ、正しいサイズで映し出されるのだ。残りのシーンでは、一部がクロースアップされるか、全体がこぢんまりと写るに過ぎない。
河が示す自然の永遠性と屋敷が示す何度も再生する人為の生命との対立、それはジーナ・ローランズとジェームズ・ガーナーとのやりとりとシンクロするように思うのだが、どうもそのことについて深く追求もせぬまま、この映画は終わる。
シネマスコープがどうしてもノアの乗るトラックよりも、彼とは階級の違う人々が乗る車の方を美しく撮ってしまうように、彼が「僕たちの歌だ」といってかけるビリー・ホリディの「Iユll be seeing you」も本当は彼らのものではないのではないだろうか。彼らふたりだけが成し遂げたことの美しさは、本当はあの屋敷と河との関係を正しく描くことによって示されるべきではなかったのだろうか。