ジャン=マルク・ラランヌ講演(3/6)須藤健太郎
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3月6日、東京日仏学院にて『マリー・ボナパルト』の上映後に、ジャン=マルク・ラランヌによる講演が開かれた。東京日仏学院では、今月から来月にかけて、カトリーヌ・ドヌーヴの特集が組まれており、ラランヌはそのプログラム選考を務めた。講演は、数々の映画作品の抜粋を上映しながら、彼がそこにコメントを加え、補助線を引いていくものだった。
ラランヌはまず1冊の書物を紹介する。リュック・ムレの『俳優作家主義』Politique des acteurs。かつて「カイエ・デュ・シネマ」が「演出」という概念を発明し、単なる職人だと思われていた映画監督たちを作家として顕彰したように、リュック・ムレは、ゲイリー・クーパー、ジョン・ウェイン、ケイリー・グラントなどの俳優をその身体的な特徴や身振りから個々に分析し、作家として顕彰するのだというようなその本の紹介がなされたが、ぜひとも読んでみたいと思った。なぜなら、たとえば『赤ちゃん教育』は、ハワード・ホークスの映画でもあるが、同時にケイリー・グラントとキャサリン・ヘプバーンの映画でもあることを私たちは知っているからである。俳優たちが映画に新たな息吹を吹き込むことを私たちは十分に知っているからだ。
ジャン=マルク・ラランヌは、古典から現代までのフランス映画の歴史を、ダニエル・ダリューからふたりのイザベル(アジャーニとユペール)までの女優の変遷をたどることで描き直していく。『快楽』の抜粋。マックス・オフュルスの署名とも言える流麗なキャメラワークもさることながら、ここでのダニエル・ダリューは、舞台での演技とは異なった映画独特の演技をしているとラランヌは指摘する。舞台に立ち、全身を観客にさらすのではなく、カメラに捉えられ、身体はより細かく分断されていく。それを意識しての演技が、鏡や窓といったフィルターを通して彼女を捉えようとするオフュルスの撮影手法と相俟って、格別の効果を生み出しているのだ、とも。そのほか、イザベル・アジャーニのヒステリックな演技とイザベル・ユペールの静謐な狂気は対立関係にあること、ジャック・ドワイヨンの映画もまたアジャーニのヒステリーの影響下にあることなど、講演内容は多岐にわたったが、この講演のクライマックスはラランヌが「ブリジット・バルドー革命」と名付けるものに話題が展開したときだろう。『素直な悪女』の抜粋。ラランヌは俳優の演技の転換点をバルドーに見出す。バルドーは単に従来は演技だと考えられていたものができなかっただけだが、その姿のまま画面に現れるだけで映画を十分に輝かせることができることを証明してしまったのだとラランヌは言う。ヌーヴェルヴァーグの監督たちの実践を、無意識のうちに予見しているようではないか、と。
彼がいくつもの映画の抜粋を流すのを見ながら、映画を見ることにおける俳優の重要性に改めて気づかされていた。映画を見るということは、カメラの後方にいる監督の思考を読み取ることでもあるだろうが、ある時はそれ以上に、カメラの前方にいて、スクリーンに映される俳優たちを見るということなのだ。俳優の姿、佇まい、声、その他すべてひっくるめてその俳優が見たいからこそ、その出演作を見るのだし、いつもそうやって見る映画を選択してきた。
ラランヌは最後に『ロバと王女』の抜粋を流す。カトリーヌ・ドヌーヴが「愛のケーキ」の歌をうたう場面。それに魅入っているうちにラランヌは壇上から姿を消していた。まるで上映が終わってエンドクレジットとともに流されるエンディングテーマのようだった。
3月12日の上映後にも彼は壇上に再びのぼるようだ。またおもしろい話が聞けるかもしれない。興味のある方はぜひ会場に足を運ばれたい。