『永遠のハバナ』フェルナンド・ペレス藤井陽子
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1本のフィルムが観るものにとって特別なものになるかいなかは、そのフィルムのなかに何が見えて何が見えないのか、何が聞こえて何が聞こえないのかということによるだろう。つまりそのフィルムを成り立たせる事象を映画作家がどう取捨選択したかということだ。現在のハバナで暮らす市井の人々を『永遠のハバナ』のなかに捉えようと試みたフェルナンド・ペレスのとった取捨選択は、彼らの生活の身ぶりを見せること、だが彼らにインタヴューしないこと、セリフを与えないこと、つまり彼らに「語らせない」ことだった。「語るべきことはもう何もない」とでも言わんばかりに人々は何も語らない。朝起きて、学校に行って、勉強して、鉄道をなおして、荷物を運んで、料理をして、アイロンをかけて……そうした日常生活の断片が身ぶりのみで映し出される。それはフェルナンド・ペレスいわく「映像は言葉よりもウソをつかない」からだ。たしかに、そこには人々の日常の様々な活動がこまかく映し出されているし、彼の意図——1杯のワインがなくとも、幸せを感じることができる人々、日常の小さなことの価値をわかっている人々の物語を作りたかった——にもおおいに共感できる。しかし、そこで交わされるはずの言葉、語られるべき言葉が拭い去られ、かわりに音楽が挿入されているのをみると、そこで発見されるはずの、人それぞれの発する言葉からにじむ多様で豊穣な生を捉え損ねているような気がしてならないのだ。日常の小さなところに宿る価値を本気で見出そうというのなら、映像のなかに宿る視線や動作や言葉や感情をすべてひっくるめて総括してしまうような音楽をつけるべきではなかったのではないか。そこに「穏やかさ」や「希望」を示唆させるベクトルをつけるべきではなかったのではないか。このフィルムは、これまで映画や国内外のニュースでも報道されることのなかったハバナの人々の今を映し出しているという。おそらくそれは本当だろう。しかしそれがどこか微小なレベルで操作されているような印象を拭えないのは、人々が何も語らず、かわりに音楽がそれらを総括したからなのだ。つまりそれは取捨選択の問題だ。何が聞こえて何が聞こえないのか。音楽は映像を助長させるべきではなかったし、フェルナンド・ペレスはもっと人の語る言葉を信じてよかった。アッバス・キアロスタミの『10話』を見れば、言葉が映像よりもウソをつくものだとは必ずしも言えないはずなのだ。
とはいえ、このフィルムはキューバの人々の熱狂的な支持を得て、1本のフィルムが擦りきれるまで上映され、高く評価されたのだという。キューバの人々は果たしてそこに何を見、何を聞いたのだろうか。