『Saraband』イングマール・ベルイマン衣笠真二郎
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教授職から引退しいまは人生の余暇を楽しんでいるひとりの老人のもとに、30年も前に別れた妻が突然姿をあらわす。ふたりは大袈裟に驚くこともなく自然に互いを受けいれあい、連絡を取ることもなかった30年間がまるで一瞬の夢であったかのように、愛にあふれる情熱的な言葉をかわしはじめる。とめどなく流れていくその対話を妨げるものは何もなく、ただ時計の針の音がゆったりと時を刻むだけである。
全部で10のパートをつくるいずれの場面においてもふたりの登場人物とその対話がシーンをなりたたせている。しかも、そこで語られる情熱的な言葉は次第に加熱してゆき、その対話を言葉の激流に至らしめる。まずその始まりは、どの人物の間にも存在する困難な断絶にある。たとえば老人の先妻と老人の孫娘とのあいだにある血縁的な断絶、あるいは、溺愛のあまり孫娘を独占しようとする老人の息子にたいする不信。そのような関係にあるそれぞれが、断絶されたまま接近しようとしはじめる。息子は実の娘に近親相姦をせまり、孫娘は義祖母に心を打ち明けて美しい涙を流す。このときかわされる対話は激情に震えている。それぞれの間にある固い壁を言葉の激流によって両側から突き崩そうとするような、当たって砕けても止まることのない激しい感情が正面を向き合い衝突するのだ。
このような言葉の激流は、それをつくりだす人間さえをも畏怖させてしまう決定的な何かだ。激流に身をもまれつづけて体に震えをおぼえだした老人は「この世界に比べるとこの身の小ささが恐ろしい」というようなことを口走り、汗まみれになった寝間着を脱ぎ捨てて丸裸になってしまう。それを見た先妻も服を脱ぎ、彼と肌を合わせる。布一枚へだてずに体と体を接触させたとしても、しかしふたりの間にある固い壁が消え失せるはずもなく、その後ふたりは音信不通の関係に戻ることになるだろう。
一対一でかわされる対話の力だけで物語にこれほどのうねりと緊張をつくりだすことはほとんど奇跡的であるように思う。撮影も舞台装置も簡素さをきわめたかたちをとりながら役者の感情と存在感がどこからもあふれ出ている。それはひとえに、この映画においてそれぞれの役者たちが家族としての共存と孤独をひとつの体で生きぬくことを強いられているからにちがいないだろう。ふたつに引き裂かれそうになろうとも必死にひとつに繋ぎとめねばならない宿命的な苦痛こそがここでの対話に生命を与えている。