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March 16, 2005

『マリー・ボナパルト』ブノワ・ジャコ
渡辺進也

[ cinema , cinema ]

カトリーヌ・ドヌーヴは僕の母親よりも年長者なことに気付いて驚いた。日仏にて上映される作品を見てみると、40年以上に渡って主演映画を持っていることにも驚く。そうだと言われればそうだけど、やはり驚いてしまう。他にそんな俳優がいるのかどうか、すぐには思いつかない。『マリー・ボナパルト』は2004年製作のテレビ作品で、彼女が主演している作品のうちでも最新のものである。
マリー・ボナパルト(カトリーヌ・ドヌーヴ)は不感症で、そのことを克服するためにウィーンのフロイト博士(ハインツ・べネント)のもとを訪れ精神分析を受ける。壁際に置かれたソファ、そこに彼女は枕で頭部を高く、両手はお腹の辺りに組んでおき、足を伸ばしてリラックスした形で横たわっている。フロイト博士は彼女の枕元に置かれた椅子に座り、彼女に過去を話すように促す。彼女は天井の辺りを見ながら過去について語り、回想画面が挿入される。どんな幼年時代を過ごしたか、はじめて彼女を求めた男性は誰だったか。彼女は何を覚えているか、何を覚えていないか。フロイト博士は床をみつめながら、その過去に対し、言葉をかけていく。1部はフロイトの診療所を主な舞台としていて、フロイトの弟子でもあり、恋人でもあったというマリー・ボナパルトとフロイトはそこではふたりきりの密室としてある。ふたりの関係性はその部屋で表れ、ふたりの関係性が精神分析によってつながっている。室内劇といってもいい1部では、そこにいろいろな映像が挿入されることで成り立っているように見える。回想シーンとともに、モノクロで撮られた記録映像が挿入される。その当時の様子を表すその映像は街の中を歩く群衆、そして徐々にあらわれてくるヒトラー、ナチスの台頭が見られてくる映像だ。
1部が室内を中心とするマリー・ボナパルトの過去の映像へ向かっての内面への冒険であるとするならば、2部ではもうひとつの挿入される映像であったナチスが、外部が画面に侵入してくるものとしてある。ナチスに狙われるフロイトをいかにして国外に脱出させるか。彼らは室内どころか国内にもとどまることができない。2部でマリー・ボナパルトはフロイトのために動き回り、ソファに横たわっていた彼女を垣間見せることもない。1部がオルガスムスにこだわるいくらか偏執狂的な女性を演じているのに対し、2部になるとフロイト博士を国外に脱出させることに奮闘する行動的で強い女性としてみることもできる。1部と2部で彼女はまったく別の人のようだ。上映後の公演でジャン=マルク・ラランヌはドヌーヴについて、「ドヌーヴとはあるタイプの女優として分類することができるものではなく、“存在”そのものである」と語った。いくつもの役を演じわけ、いや演じ分けるというよりはいつもドヌーヴという“存在”でありながら役にはまっていく(ドヌーヴを花に例えると花ではなく花瓶である、とトリュフォーは言ったそうだ)。そうした彼女の本領が見られる映画のひとつとしてこの『マリー・ボナパルト』があるのではないだろうか。終わりのほうの場面、国外を脱出したフロイトは病気のためか、ソファに横たわり眼をつぶる。そのとき枕元に置かれた椅子にはマリー・ボナパルト=カトリーヌ・ドヌーヴが座っている。カトリーヌ・ドヌーヴは1本の映画をも彼女の“存在”によって変えてしまう。