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March 18, 2005

『カナリア』塩田明彦
田中竜輔

[ cinema , cinema ]

shiota2.jpgひとりの少年が児童相談所を脱走した。その経緯は文字と朗読によって説明される。その少年の第一の名は「光一」であり、映画のファーストショットは彼が上空を掻き乱すヘリコプターを見上げている様子に与えられる。それまでの一切の説明は彼に与えられたものであることも判明するだろう。彼はそこから当然のように出発する。その場所から程遠くない場所にある廃校に潜り込むと、そこには彼の武器となる1本のドライバーと、歩みを共にするひと組のコンバースの白いスニーカーが「用意」されている。そして、彼のパートナーとしてひとりの父親を嫌悪する少女が横転した車から「登場」する……。フィルムの序盤の僅かな時間からすでに「嘘のように」連続する「偶然」が、このフィルムが明確にあるひとつの「物語」を語るために作られていることを疑いないものにする。

少年の、あるいは彼の母親と妹とのカルト教団「ニルヴァーナ」での生活の様子がフラッシュバックで説明される。彼はそこでの儀式において「ラバナ」という第二の名前を与えられる。一方で、彼は指導者によって「エネルギー」を注入されたという食事を投げ捨てたり、ある信者と信者の手紙のやり取りを担うことで幾度も苦行に追い込まれ、泣き叫んでいる。反発と適応、その境界を彷徨う少年の姿は、彼がすでに何かと対峙し続ける存在であることを示すだろう。
旅の道程で少年は自らの武器となるドライバーを磨ぎ続ける。彼の第一の目的として、彼の敵である「祖父」から妹を取り返すためだ。少年はその旅の終盤にかつて同じ生活を送っていた「元信者」たちが集団生活している場所に「到着」する。もはや彼らは第二の名前を捨て去っている。つかの間の休息は、使い捨てられた幾つかの物体を修復する仕事に費やされる。かつての信者のひとりは少年に彼がもはや「ラバナ」ではないことを説いてみせる。最後の軍資金を少年と少女は手に入れ、少女は新しい洋服を盲目の老婆から継承する。
だが、目的の地の定食屋で、「光一」という第一の名前を与えた少年の母の死がTVから告げられ、少年は雨の中で最後の嗚咽を漏らす。彼は第二の目的を失った。少女は武器を失意の少年から受け取り、自分自身の敵である父そのものとして少年の祖父に対峙する。だが、それは髪を白髪に変えた少年の手によって阻止される。少年は第三の名前であり、自ら名付けた初めての名前である「我」として、「すべてのものを許す」ことで、妹を奪還する。男と女と少女は、手を繋ぎその先に続く「生」へと歩き始める……。
『カナリア』は「逃走」の物語でも、「復讐」の物語でもない。ヘリコプターや警察に注意を払い続けることや、自分自身を受け入れない祖父に対する怨憎は、少年を動かし続けるためのカンフル剤でしかなく、この物語を進めるために必要なものとして与えられたもの——金銭、食事、武器——と同等の価値でしかない。より重要な問題は「名前」なのだ。彼がどうしても逃れることのできないふたつの名前、彼を指示対象として規定するふたつの与えられた名前への「抵抗」の物語。そしてすべてを捨て去り「生きる」ことを選択する物語がここにある。

しかし『カナリア』という「映画」は、この「抵抗の物語」を終えると同時に終わってしまう。偶然に用意された武器、金銭、出会い、少女、そして名前……つまり「必然」として用意された「偶然」の中で少年は「抵抗の物語」を完遂するが、その物語の終焉には一体何が用意されるのだろうか。決定的な契機である第三の彼自身による命名も幾重にも重なった「偶然=必然」の中にしかない。
このフィルムの少年がドライバーを磨くことと同じように、手に入れたステンレスのスプーンを鋭利に磨き、他の受刑者に渡すための手紙を運び、「偶然」に運び込まれた若い囚人と共に厳重な警備を周到な計画で突破した男は、計画の完遂後、ただ静かに塀の外を歩いていた。この場所に与えられたすべてのものは、もちろん「偶然=必然」に変わりない。だが、それを不可避のものとしながらも、そのフィルムは「物語」というひとつの決定的な命名を背負うこと、あるいは映画にほとんど必然的に演劇的な要素が介入せざるを得ないことに対し、演出や編集における徹底的な厳格さによって抗っていた。その偉大なフィルムが、日本において『抵抗』という名前で呼ばれているのは決して不思議なことではない。

渋谷アミューズCQN他にて公開中