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March 21, 2005

「森山・新宿・荒木」展
藤井陽子

[ photo, theater, etc... , sports ]

araki_moriyama.jpg自分を包む外界すべてをアクシデントと捉えた森山大道は「新宿」という場所と出来事を擦過しつづけ、その速度のなかで写真という句読点を打っていった。かつてあったこと、もう終わったこと、新宿という街、そこにいた人たち——彼を擦過していったもの——は、彼の写真のなかで、がちゃがちゃとした曲線や直線、街に溢れる看板や電線や文字、突如現れた底の見えぬ黒影となり、彼の打った句読点として残る。
荒木経惟は、フレーミングやシャッターチャンスや陰影や構図などが、みんなダメと言っているようなムダのあるものが新宿は面白いと語り、マキナのワイドで撮ることで、その場所や出来事の特定の対象だけでなくムダを入り込ませる余地を作り、彼の捉えきれないものも一緒に写してゆく。

 荒木「何が写ってっか、何撮ったかって、森山さん記憶ないと思うんだよね」
 森山「そうなんだよ。オレ、どうでもいいんだよ」
 荒木「でしょ?」
 森山「もう全然関係ないんだよ、そんなこと」

ハナから何も見てないと言い、冗談交じりに自らを「座頭市」と言う。森山大道の語る言葉や文章や人やものごとに対する姿勢は、人を惹きつけるものであるが、どこか冷めた、余分なものや余分な解釈をいっさい切り捨てたところがある。「個々の人間にね、ほとんど興味が向かないのよ、カメラ手にすると」。「まあ、興味なくなるよね、物事に。街にも、人にも」。それは街に貼られたポスターをそのまま写しただけの、ポスター以外の何物でもない写真にも表れている。その前に立つと、森山大道の「写真はコピーでしかない、複製でしかない。それ以外の何物でもない」という言葉が聞こえてくるようだ。
しかし余分なもので虚飾しない森山の写真が「図鑑」のようにならないのはなぜだろうか。むしろそれとは違うイメージの荒木の写真が、新宿の「図鑑」のように見えるのはなぜなのだろうか。

森山大道の写真を見ていると、「カメラと森山大道」、それをひっくるめたものが、彼の「写真機」なのだということに気がつく。その点、荒木経惟の場合、「写真機」はあくまでカメラであって、荒木も被写体も「写真機」にはならない。森山大道の写真が「記憶」という言葉を強く喚起させるのも、彼にしかとれないような視線を獲得しているのも、写っているものが彼の個人的な人(もの)ではないのに、その写真が非常に個人的なものに見えてくるのも、彼自身がカメラとともに「写真機」となっているからではなかろうか。そして、荒木経惟の写真が新宿の生・性(死)をそのまま直接写真に持ち込んだように見えるのは、彼が「写真機」ではないから、つまり撮られた瞬間の被写体に、彼のなかを通過させることなく直接カメラにぶち当たらせているからではなかろうか。
被写体の発するエネルギーのみが写真を覆い尽くしているものや、時おり、それこそ図鑑のような印象を抱かせる新宿の街を彼が撮るとき、そこには「被写体」だけ、あるいは「荒木経惟」の入り込まない〈「カメラ」と「被写体」〉だけの関係が見受けられる。そこには、森山大道の写真の〈「森山大道・カメラ」と「外界のアクシデント」〉という関係とは異なる関係を見出だすことができる。つまり、荒木経惟の撮る新宿は、「記憶」とは結びつかない。荒木の撮るものは常に「今」と「被写体」だ。それが、森山の言う荒木経惟の「シャープさ」なのではないだろうか。

森山大道、荒木経惟ともに、新宿で何を撮ったのかということよりむしろ、「新宿で撮った」ということ、新宿の出来事を擦過したということ、それもふたりでやったということが、なにより意味深いようである。彼らはそれぞれ異なる方法をとっているが、そのどちらも人を惹きつけ、そして他を寄せ付けない。この写真展によって、森山大道、荒木経惟ともに、改めて、天才であることが証明されたといってもそれは過言ではない。

1月15日 - 3月21日
東京オペラシティアートギャラリーにて開催


amazon.gif森山・新宿・荒木