「森山・新宿・荒木」展鈴木淳哉
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約40年にわたって新宿を縄張りに写真を撮り続けているふたりの初の顔合わせだという。森山/荒木、新宿という場所、40年という時間の流れ、見る人によっては無限の物語をつむぐであろう前情報はどのように処理すべきか……などと考えていたわけではない。ただ、どうしてもキュレーションに興味がいってしまいがちなところを抑えて写真を、見に行った。
今回の撮り下ろしをカラー/モノクロで分けたのは、企画側なのか撮影者本人の希望なのかわからないが、入ってすぐに気がついたのは荒木の写真の見にくさである。これは写真の問題ではなく単純に展示方法の問題で、展示スペースが明るすぎるためにグロッシーな表面の荒木の写真は室内の光を反射してしまうのである。ギャラリー側のミスか、意図かどうかより、問題はその展示の挙げる効果だ。反射が写真を見にくくし、見にくい写真が壁一面、膨大な量展示されている。この壁は端的に「幻惑」を感覚させるし、目を凝らすほど見えにくい写真群は新宿という町とも相性がよさそうだ。すごく気に入ってしまった。ここでわかるのは、荒木は今回「写真」を、飾っているのではなく、「写真」で、飾っているということだ。
一方、森山の作品は見えやすい位置に掛けられ、多少の反射はあるものの素直に作品に触れることができる。そもそも彼の多用するモノクロフィルム、白黒写真とは、フレーム内のすべてを光と影に分別する装置である。そのフィルムをもとにおそらくは本人自身でプリントされたと思われる何点かの写真にやはり強く惹かれた。言うまでもなく、プリントとは光と影に反転して分類されたフィルムの透過光を印画紙に焼き付ける作業であり、ここで際だつのは一般的なプリントの美しさとは別方向の森山氏の光/影、被写体たる世界に対する触感である。すでに百万言が費やされたとは思うが、光/影の反転、そのまた反転で戻ってきた画像には影が光ににじむような独特のハイコントラストで観者を惹きつける。森山の暗室での手作業は一般的な「写真作品」の完成度を上げるためではなく、森山の感覚する(擦過した)世界の手触りを再現するためにこそ真価を発揮する。
そのスペースを通り抜けると、荒木の「tokyo nude」シリーズのプリントが展示されており、ここでだけ堂々と「写真」を飾っている。「記録」を命題として生まれた「写真」というメディアの生成の過程に奇形的に誕生し発見された美しさ、鑑賞物としての写真という、写真展を開くという行為の最も原理的な理由がダイレクトに伝わってくる。森山の「写真」表現はこの写真史に拮抗するのだ、ということを荒木の最も美しい「写真」によって教えられる。贅沢な写真展だった。