『ナラタージュ』島本理生月永理絵
[ book , cinema ]
小説を読むときにまず気になるのは、そこに登場する音楽や映画などの固有名だ。こうした固有名には時代性が大きく関わるので、自分と同年代の作家により共感を覚えるのは当然だ。かと言って、共感できるというだけでその小説を支持できるわけではない。83年生まれの(私よりひとつ歳下である)この著者の小説には、私が共感できるはずの固有名が何度も登場する。だが、これらの固有名に対し私はなんとも言えない「恥ずかしさ」を感じてしまった。この小説を支持できるかどうかは、「恥ずかしさ」を許せるかどうかにかかっていると思う。
たとえば音楽について。主人公の大学生の女の子が、同年代の男の子と好きな音楽について会話をする。レディオヘッドやニルヴァーナ、ネイティブ・サン、シンディ・ローパーという固有名。それらが、聴いたことのない新しい音楽として、「ちょっとこだわっているような曲」として扱われる。あるいは映画について。『エル・スール』や『存在の耐えられない軽さ』、『僕の村は戦場だった』などが例として使われ、「古い映画のほうが詳しい」から「友達や同年代の知り合いで同じぐらいに話せる人がいない」主人公が、同年代の彼氏よりもひとまわり年上の男性と、映画の話を通して心を通じ合わせることができるという設定。
レディオヘッドの『OK COMPUTER』が発売されたのは97年、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のサントラでトム・ヨークがビョークと共演し、『AMNESIAC』を発表したのが01年。ちょうど私が高校生だった時代だ。物語としては、結婚間近の女性が大学時代の思い出を振り返るという設定なので、6、7年前の時代設定として考えれば一応納得はする。だが、主人公と年上の男性が同潤会アパートの話をする箇所で混乱がおきる。青山と茗荷谷のアパートが何年か前に取り壊されたとはっきり名言されるからだ。青山のアパートが取り壊されたのは03年の春だし、大塚女子アパートも03年3月に取り壊されたはずだ。とすればこれはやはり現在、少なくとも03年以降の設定ということになる。
「恥ずかしさ」を感じるのは、私の個人的な感情だろうか? 時代を意識した新しい感覚と呼ぶべきだろうか? もちろんレディオヘッドは今でも楽曲を発表し続けているし、ニルヴァーナの名前を持ち出すことも、それ自体はなんの問題もない。「恥ずかしさ」の原因はもっと奥にある。小説を書く上での覚悟の問題だ。金井美恵子の小説を読めば、そこで何気なく登場する映画の固有名が、ある覚悟と意識のもとで使われていることがわかる。小説の中で1ヵ所でも記載される固有名の重みを自覚すること。それがこの小説に決定的に欠けている態度だ。
私自身とはまったくずれた感覚を、著者が本当に何の「恥ずかしさ」も感じずに現在体験しているのだとしたら、あるいは「恥ずかしさ」こそが彼女の企みなのだとすれば、それはそれで興味がある。だが私はどうしてもこの小説を受け入れることができないし、著者の小説を書く上での覚悟のなさを見逃すことができない。それよりはたとえば矢作俊彦の小説に登場する長嶋茂雄や石原裕次郎という名前の方が、まったく共感できないぶん受け入れることができるだろう。こうしたことは物語のおもしろさとはまるで別の問題だ。