丹下健三の死梅本洋一
[ architecture , cinema ]
汐留の松下電工ミュージアムで「DOCOMOMO100選」を見た。汐サイトに行ったのは初めてだったので、周囲を探索しながら会場に赴いた。新橋駅の復元は最低の出来。古めかしく装った建物の中にレストランが入っているだけ。首都高から見ると、ジャン・ヌーヴェルの電通もかなり奇麗なのだが、下から見上げると単なる高層ビルにすぎない。何よりも良くないのは、歩行者レヴェルの地上にいると風景の抜けがなく、どこにいるのかまったく分からなくなることだ。風景ではなく地図を頼りに今いる位置を確かめるという行為はとても倒錯的に思える。
さてDOCOMOMOだ。古い建築物は残すが、近代建築についての保存運動は少ないことへのアンチテーゼとしてDOCOMOMOが始まり、それなりに近代建築が「文化財」として保護されるきっかけをつくった意味でDOCOMOMOは評価されるべきだろう。何よりも東大の鈴木博之教授のお墨付きがものを言う、こうした保存運動にも問題はあるが、それを論じる紙幅はない。展覧会それ自体は、少数の模型と設計図はあるものの、「JA」誌の同名の特集とそれほど変わらないので、あえて足を運ぶ必要はないだろう。
だが、近代建築を並べてみると、私自身が今日まで生きてきた足跡を見るような気がするのはとても不思議だ。幼少時を過ごした横浜、桜木町から関内に至るプロムナードは、今思い出せば、近代建築のヒットパレードだった。父の仕事で小学生のときに新潟に転勤し、帰郷したときが東京オリンピックの年だった。住んだのは原宿。代々木のオリンピックプールがまぶしく見えた。2時間で200円の低料金で世界記録が何度も生まれたプールで泳いだ。表参道のコーポ・オリンピア、そして同潤会アパート……。私の通った都立青山高校は高校闘争の拠点で長いこと封鎖されていた。高校側が開校のための会議の場所として指定したのは、旧都庁の大会議室だった。そして大学生になった私は、レネの『ヒロシマ・モナムール』で広島平和記念館を発見し、草月アートセンターでアヴァンギャルド映画を見た。代官山にできた「レンガ屋」でケーキを買った。大人になって仕事を始めた頃、大久保に住んでいて職場まで、現都庁の横をクルマで通勤した。そう、それらの多くは丹下健三の作品で、丹下の風景と丹下のインテリアの中で私は多くの時間を過ごしたことになる。DOCOMOMOにも丹下作品が3点選ばれている。広島ピースセンター、香川県庁、国立代々木競技場(それぞれ正式名称)である。この3つの意匠を読み解けば、丹下に潜む「幻想の日本」=「大東亜共栄圏」が次第に露呈してくる過程が見えるし、それがそのまま日本の戦後史に繋がるようでもある。柄谷がかつて語ったことの正しさが証明されるだろう。
私がこの展覧会を見た日、丹下健三が死んだ。彼が死んだからと言って、風景の変容は終わりにならない。彼が設計した東京都庁も代々木オリンピックプールも山手線からよく見える。彼の晩年の作品であるパークハイヤットも東京ドームホテルも映画作品として、21世紀の東京のランドマークになっている。