『オペレッタ狸御殿』鈴木清順小峰健二
[ architecture , cinema ]
清順はこの『オペレッタ狸御殿』のインタヴューに答えて、内向的な映画ばかりが目に付くいま、ぜひ馬鹿馬鹿しくて楽しい映画を撮りたかった云々と語っている。つまり、このフィルムは清順流の娯楽映画になるべく製作された。1940年代から50年代にかけて人気を博したかつての「狸御殿モノ」がそうであったように、多くの観客を魅了し、ときに笑いや涙を誘う映画。そのような映画こそ清順がいまこの時代にやりたかった企画なのだ。
清順の手によって蘇った『オペレッタ狸御殿』もかつての「狸御殿モノ」に共通する“狸御殿で繰り広げられるラブロマンスと歌と踊り”という暗黙のルールを踏襲している。現代の「狸御殿モノ」を撮るにあたって清順が要求した「その時代の一番のスタア」チャン・ツィイーとオダギリジョーが主役に迎えられ、その彼らが演じる狸姫と雨千代との「許されぬ恋」を歌と踊りが盛り上げていくという構成。その「許されぬ恋」は、実の父であり、がらさ城城主でもある安土桃山から、その美しさを妬まれ追われる雨千代が狸姫と偶然出会ったことで始まる。狸と人間は恋におちてはなりませぬ——と狸姫の乳母お萩の局は狸姫を咎めるが、ふたりの恋心は募りに募っていく。そして、その「許されぬ恋」や狸姫の「恋心」をテーマにした歌が狸姫本人や侍女たちによって唄われるのだが、登場人物たちの「感情」を歌にするといったこのような芸当は、過去のミュージカル映画などによく見られるものであるし、異なる生物、階級、人種、宗教などの「許されぬ恋」といったテーマ自体、映画ばかりでなくありとあらゆる物語のなかで反復されてきた主題である。ここから見てとれるのは、清順が語ったようにこの『オペレッタ狸御殿』はかなりの部分で娯楽映画を志向しているということだ。実際このフィルムは本当に馬鹿馬鹿しいし、歌や踊りが私たち観客を楽しませてくれるから、清順の目論見に適った出来になっているのだろう。もちろん、清順が好んで使用する「すっ飛び」(カットが割れると、人物の居る空間そのものが別の空間に変わっているモンタージュ)も随所に見られるし、木村威夫の美術セットも相変わらず異彩を放っている。また、80年代以降清順作品に頻繁に見られる桜も少女も顔を出したりするから、この『オペレッタ狸御殿』は清順ファンをも納得させるものになっている。
ただ、どうだろう。この『オペレッタ狸御殿』のキャッチコピーには「胸を締めつけるせつないラブ・ストーリー」とあるが、昨今、映画に「純愛」(『世界の中心で、愛をさけぶ』『いま、会いにゆきます』など)を求める観客にこのフィルムは受け入れられるだろうか。『オペレッタ狸御殿』には、「純愛」ばかりか、この映画の売りであるはずの「ラブロマンス」さえ希薄なように思える。例えば、瀕死の狸姫を助けるため、雨千代が生きては帰れぬと言われる快羅須山から命からがら持ち帰った極楽蛙が「ケロリーン」と鳴き、狸姫が息を吹き返すとき、観客は失笑を禁じえない。おそらくここが「ラブロマンス」のハイライトであるにも関わらず、金メッキが張られた作り物の蛙が「ケロリーン」と高い声で鳴くのだ。その「ケロリーン」に間違っても涙など出てきはしない。これは人を喰ったような清順流の冗談、あるいは江戸っ子特有の照れ隠しと言えば言えるのだが、かつて「時流に乗れない」と語っていた氏の痛烈な「純愛」映画への皮肉ととることもできる。目に見えるかたちで存在しない「純愛」など映画のまやかしでしかない。そう告発しているようにも思える清順流の娯楽映画は、「純愛」映画を、あるいは観客を挑発しているように思われる。