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April 8, 2005

『四十日と四十夜のメルヘン』青木淳悟
月永理絵

[ book , cinema ]

aokijungo.jpg「日付けを追いかけては引き返し、手ぐり寄せては押し戻す」、主人公のあるいは作者のそんな試みは偏執狂的なまでに徹底している。主人公あるいは作者の、と言ったのは、この小説に登場する「わたし」が小説を書こうとする行動が、同時に『四十日と四十夜のメルヘン』という作品を形づくっているからである。「わたし」をめぐる物語や、私小説にすらなり切れていない日記としか呼べないような小説が、今は溢れ返っているような気がする。だがこの作品もまたそんな類いの小説と同じだ、と言い切るには少し早い。
つまりそれは何度も同じ日にちの出来事を書き直す、という行動に原因がある。「わたし」が通っていた文芸創作教室の講師であった作家「はいじまみのる」の、処女作における創作方法が紹介される。彼が見つけた中世と思われる時代の修道士の日記は、日記とも呼べない簡潔な日々の記録なのだが、その記録された紙の数があまりに多くそして単調な内容のため日付けごとに並べることができない。散々苦労したすえ、彼はその7年間の記録と思われる手記を、7日間の出来事に収縮し、自分の小説として発表したのである。「わたし」はそれを真似してかどうか、とにかく4日間の記録を書き上げようとする。「新しい小説」を書こうとして、ただ日記を書くことしかできずにいる「わたし」は、その日記ですらまともに書くことができない。日常を再現しようとしてもたった4日間の出来事を、何度も何度も書き直さなければいけない。
部屋にたまっていくチラシやスーパーの割り引きセール、自分を高めるための教室通い、そんな身近にある嫌悪感を、この小説はうまく扱っている。そもそも日記をつけるという行為自体がとてもみじめだし、自意識過剰な行為でしかないということをよく承知したうえで、作者は日記から「新しい小説」をつくれるか、という問題に取り組んでみる。
こんなことを書くと、読む気など失せてしまうかもしれないが、最後には「わたし」は日記の日付けを書くことも小説を書くこともあきらめてしまう。部屋で日記なんて書いていたら、熟知しているはずの「地元駅の構造」すら間違って認識してしまう。だから「わたし」はチラシを放り投げて、とりあえずアパートの四階から半地下まで実際に降りてみるという垂直運動に身を任せてみる。世界には水平運動だけではなく、垂直運動も必要だし、それを確かめるには実際に運動してみるしかない。そうして書きかけのメルヘンを中途半端に投げ出したまま、『四十日と四十夜のメルヘン』という小説は終わってしまう。随分ずるいやり方にも思えるが、青木淳悟という作家にとってこの作品がデビュー作である。こんな終わり方が許されないようなやり方を、今度はぜひ長編で読んでみたい。

amazon.gif四十日と四十夜のメルヘン